「映し鏡」とは「同じ」ということではない
人は自分の映し鏡である。
とよく言われます。
これは「同じことが、自分の中にあるということ」という説が、一部で、まかり通っていますが語弊があると私は思います。
「映し出されたことから学びなさい」という意味であり、「同じ」もしくは「正反対」とは限らないのです。
人生、そんなに単純な学びのわけがない……はず。
「鏡に映った自分の顔」は、実際にみんなが見ている自分の顔と同じ?
同じではありませんよね。左右が反転しています。
つまり「鏡」というものは、「ほかの人の視点の映像」。
それを、映ることによって少しだけ客観視できる、ということ。
だけど、それは「真実」と異なる……ということです。
映し出された事柄は、似ているあることもあれば、
そうではないこともあります。
イライラするのは自分と似ているから。
……とは限らない。真逆でもイライラします(汗)。
どうしてそんな人が存在するのだろうか。
理解できないからこそ反論したりするものです。
もちろん「自分がやりたくてもできないことをしている人」にもイライラすることもあるでしょう。その場合は「実は、似ている」ということ。「似た人を見せてくれている」というのが「映し出されている」のです。でも、いつもいつもそうとは限りません。
夫婦は映し鏡。
では、恐怖で支配するタイプのDV男の妻は、全員、DV女なのか。違います。DV男といっしょにいる女性の多くは、家庭内で親に恐怖によって支配されたきた人です。
この場合は「映し鏡」として、なにが映し出されているのか。
「親と同じような恐怖で支配する人と結婚してしまった」という現実を映し出しています。DV夫といっしょにいる=コントローラータイプの親に支配されてきた自分を映し出しています。つまり「同じ」じゃなくて「自分の置かれた立場」を映し出しています。強いて言えば「機能不全家庭で育った者同士」という捉え方はできるかもしれません。
このように「映し出されたこと」=「同じ」とは限らないわけです。
もちろん、似たところがある可能性は否めません。例えば、モラハラ男の妻(彼女)は時間にルーズだったりします。モラハラタイプの資質のなかに「世の中のルールを守らない」「わがまま」ということが含まれていますが、その部分と、妻の「時間にルーズ」とは通じるものがある。でも、「映し鏡」=「同じ」という捉え方だと、モラハラ男と結婚している妻はモラハラ女ということになる。
人生の学びは単純そうで、そんなにわかりやすくはないというわけではないのです。
「自分がしてうれしかったことを人にもしなさい」という教え。これもファーストステージでの常識と言えるでしょう。ステージが上がっていく(=難易度の高い人生課題に向き合っている)と違和感のある教えです。
人にされて「嫌だ」と感じること、
「うれしい」と感じることは、人それぞれ違う。
例えば、電車内で席を譲るとき、「譲ってあげよう」とお年寄りに声をかけたら「は? わしはまだ元気じゃ!」と拒否されたことがある人も少なくないのではないでしょうか。
それぞれの魂年齢よって学びが違いますので、「映し鏡」は「あなたの中に同じことがある」というシンプルな教えではないはずなのです。
ユーミンが、わかりやすくそれを伝えている。
「眼に映るすべてのことはメッセージ」。
そう。メッセージ。紐解きましょう、ということ。
映ること=同じ。
ではなくて
映ること=「そこから何を学ぶべきか?」。
人生のヒントが映る、ということなのです。
例えば、「嫌だな」と思う人がいるとして、
その嫌なところが同じとは限らない。
その嫌な人の方法を見て
「あの手法はやらないようにしよう」というヒントかもしれません。
「『そういう人もいる』ということを知れ」ということかもしれません。
身近にいる家族との関係に似ているから、社会でも同じような人と出会うのかもしれません。そして、その家族との関係を考え直したほうがいいタイミングで出会ったりします。
ゆえに、その嫌な人と「距離を置いたほうがいい」というメッセージかもしれません。
すべては「どう感じるか」「どう向き合うか」のヒント。
もしかしたら、「映し鏡」というよりも「水晶玉」みたいなイメージのほうがわかりやすいかもしれないけれど。でも、「異なる角度から見る」という意味で、「鏡」という言葉が使われているのでしょうね。
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