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父から『完全自殺マニュアル』をお下がりでもらった話

父から『完全自殺マニュアル』の初版をもらった

いや、どんなチョイスだよ。

普通、親が子供に譲る本といえば、人生の役に立つ自己啓発書とか、歴史的な名作とか、せめて「人間、死ぬまでが勝負!」みたいなポジティブな一冊じゃないのか? それなのに、よりにもよって「自殺マニュアル」。

たとえばこれが母親だったら、「お母さん、何か言いたいことある?」と真剣に話し合いになっていただろう。でも、相手は父だ。昔から、物事の選び方が妙に雑なあの父。だから、もしかしたら「本棚にあったし、まあ、お前にやるか」くらいのノリだったのかもしれない。

けれど、よりによってこのタイミングで?

ちょうど人生のどん底を味わっていた時期で、心がボロボロだった。「は? 自殺しろってこと?」と悪態をつきながら、それでもなぜか手放すことができなかった。

本には不思議な力がある。読まなくても、手元にあるだけで何かを問いかけてくる。特にタイトルが強烈な場合、その存在感は無視できない。
『完全自殺マニュアル』。この9文字が部屋にあるだけで、何かを突きつけられている気がした。

だから、試しに読んでみることにした。

すると、そこには予想外の光景が広がっていた。

「これは本当に自殺マニュアルなのか?」

まず最初に感じたのは、「妙に冷静な語り口」だった。

普通、こういう本を書くなら、どこかしらに感情が滲むはずだ。
たとえば、「自殺なんてやめろ!」と熱く説得するか、「死にたい人の気持ちに寄り添おう」と優しく諭すか。

ところが、この本はどちらでもなかった。
文章は淡々としていて、本当に名前の通り、まるで取扱説明書のようだった。

そして、どの方法も、まったく「おすすめ」されていない。

たとえば、首吊りの項目。
「成功率が高く、準備が比較的簡単」と書いてあるものの、そのあとに続くのは「意識を失うまでの時間」や「吊るした後の体の変化」など、やたらとリアルな記述。

そこに書かれていたのは、「死ぬ方法」ではなく、「死んでいく過程」だった。

これは精神医学でいうところの「脱ロマン化」に近い。

たとえば、禁煙治療では「喫煙のかっこよさ」を剥ぎ取るために、ニコチン依存の科学的メカニズムを説明することがある。「あなたは自由に吸っているのではなく、脳が操られているだけです」と突きつけることで、煙草の幻想を壊すのだ。

『完全自殺マニュアル』もそれに近いことをしていた。

「死ぬことは美しくないし、ドラマチックでもない。ただ、肉体が崩壊していくだけ」

そういう現実を突きつけられる。
その結果、読んでいるうちに「自殺したい」という気持ちが、少しずつ削がれていく。

「自殺するかどうか」ではなく、「なぜ死にたくなるのか」

さらに、この本の妙なところは、途中から「自殺の方法」ではなく、「生きづらさの構造」に話が及ぶことだ。

「人はなぜ自殺するのか?」
「社会がどんな構造だから、生きづらくなるのか?」

そういう視点が随所に挟まれる。

心理学的に、自殺を考える人の多くは、「自分がダメだから」「自分が耐えられないから」と、自分に原因を求めがちだ。でも、この本を読んでいると、「いや、社会のせいでは?」という視点が生まれる。

たとえば、フランスの社会学者エミール・デュルケームは、自殺の研究を通じて「自殺は個人の問題ではなく、社会の病理である」と結論づけた。個人の孤独や絶望は、社会の構造が生み出しているという考え方だ。

『完全自殺マニュアル』も、どこかその視点に近いものがある。

たとえば、「日本は世界的に見ても異常なほど労働環境が厳しい」という記述が出てくる。確かに、日本の長時間労働や職場での圧力は、他の国と比べても過酷だ。つまり、「生きづらさ」は、個人の努力ではどうにもならない部分があるのだ。

この本は、直接「生きろ」とは言わない。でも、読み終えたときには、「社会のせいで生きづらいなら、死ぬ前にもうちょっと抵抗してもいいかもな」と思えてくる。

父はこの本の意図を知っていたのか?

ここで、改めて疑問が浮かぶ。

「父はこの本の内容の本質を知っていたのか?」

「これを読めば、逆に死ねなくなる」ということを理解した上で渡したのか?
それとも、単に「なんかお前、暗いし、こういうの好きそうだろ」くらいの適当な感覚だったのか?

父は肝心なことをいつも語らない人だから、本当の意図はわからない。

ただ、一つだけ確かなのは、私はこの本を読んだことで、いったん踏みとどまることができたということだ。

「死ぬか、生きるか」の二択ではなく、
「どう生きるか」を考える余地が生まれた。

それだけでも、この本を読んだ意味はあったと思う。

「興味本位で読んでみてほしい」

『完全自殺マニュアル』は賛否両論の多い本だ。
実際、販売規制が議論されたこともあるし、「自殺を助長する」と批判されたこともある。

でも、少なくとも私は、この本がなかったらどうなっていたかわからない。

「死にたい」と思っていたのに、読んだ結果、「こんなの面倒だから生きるか」となったのだから、不思議な話だ。

だからこそ、興味本位でもいい。
もし、ちょっとでも気になったら、読んでみてほしい。

たぶん、想像しているのとは全然違う本だから。


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