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多様性への違和感
多様性の時代だと言われるが、そもそも1人として同じ人間はいないのだから、そもそも多様やんけ、、と思う
なぜこれほどまでに多様性が叫ばれるようになったのか
「多様性を認めよう」とはマイノリティの人たちの生きづらさをなんとかしようとする運動ではないか?
すぐに人に暴力を振るう人がいたとして「暴力を振るいたくなる人もそりゃいるよね」と多様性の一部としてはコミュニティ内で許容されない
結局、多様性とは「自分が安全だと思う範囲内において認識できる個性」でしかない
自分の中で危険と認識されるパーソナリティや思想は多様性なんて言ってられない
だからこそ、多様性をどんな枠組みで認めるか?という最低限のガードレールを誰もが無意識のうちに作ることになる
組織で言うならば宗教っぽいベンチャー企業の方が業績を伸ばしやすい
「楽しい」と思うことが似ていて、共通の口癖があり、思想そのものが近しいメンバーと働くことはそれは楽だし、面白いし、頑張れる。
みんなで会社を大きくするぞ!!!とエンジン組んでいるときに「資本主義なんてクソだろ」と言う人がいたらそれは多様性なんかではなく
シンプルに異物として排除される対象となる
だからこそ多様性には強みがセットになる
その人が得意なこと、その人がストレスなくできてしまうこと、趣味レベルで気づいたらやってしまうことを活かせる環境を設定できれば
排除対象の異物ではなく、欠かせない個性として尊重される
ホラー映画が怖いのは常人には全く理解できない言動をする殺人鬼や、予測不可能な怪奇現象が起きるからである
意味がわからない思想や行動は恐怖の対象となる
多様性を語る上では必ず目的がセットになる
安全な社会生活を送る上では、人を殺すことに快感を覚えるみたいな人がいたら多様性の一部なんかではなく、異物だし
資本主義経済において市場のシェアを拡大しよう!という企業組織においては、資本主義の思想が嫌いだ!みたいにいう人は異物になる
異物はコミュニティから排除される
ところが
楽しく飲む!という目的の場においては資本主義嫌いだ!みたいな人は多様性の一部として認められる
自分とは異なる価値観を持っている人として認識され、視野が広がるきっかけとなりうる
多様性が語られる上では、どんな目的のもとでの多様性なのか?を考えることが大事だと思う
そして現実的には自分が異物となりうる環境にはいるべきではない
自分の強みや弱い、好きなところや嫌いなところが個性として尊重される環境はどこかしらあるはずである