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『死の同心円』からの考察する化学物質過敏症の生き方

突然ですが、『死の同心円』という本をご存知でしょうか。

タイトルがものものしいのですが、、、

この本が化学物質過敏症の生き方の
ヒントになるかもしれないと思い、
化学物質過敏症の私の観点で、
レビューしてみたいと思います。

著者は第一浦上病院という
長崎原爆の爆心地近くの病院で、
院長を務めていた秋月辰一郎さんというお医者さん。

この本は、彼が長崎原爆投下後に、
起きたことを綴った手記です。

この本によると、

 原爆投下直後に、多くの方が
 焼けただれて亡くなったあとに、

 それまで難を逃れ、
 助かったように見えていた人たちも、
 原爆症の症状で、次々亡くなっていった
 そうなんですね。

『死の同心円』というタイトルのとおり、
爆心地から同心円順にみな倒れていったというのです。

手記にもこの様子が描かれています。

「もう初冬であった。町の瓦礫が少しずつ取り除かれ、壕舎から炊事の煙がたちのぼるようになったが、原爆後遺症の恐怖はこれからであった。
 死ぬべき人はすでに世を去ったせいか、被爆後の40日間のように、相次いで人が死ぬということはなかったが、突然歯ぐきから出血したり、紫斑を生じて急死する人は絶えなかった」。

第五章 小さな診療所より

まさに死の同心円が毎日少しずつ広がっていく。きょうはあの線までの人が死んだ。翌日はその家より百メートル上の人が死ぬだろうと思っていると、はたして的中する。

(中略)

「病院まではまだ距離があるが‥」次第に広がる円周に恐れおののきながら、私は毎日のように近くの人々をあつめて髪の毛を引っ張った。「どうだまだ髪の毛は抜けないか」ーと。

第四章 忍び寄る魔の手より


ところが、結果的に、
この第一浦上病院では
一人の患者もスタッフも亡くならずに
みな生き残ったのです。

「少なくとも、死の同心円が迫ってきたとき、病院の職員と患者だけは紫斑も出ず、激しい抜け毛や歯ぐきの出血もなかった」

実際に秋月辰一郎医師自身も、
原爆症にならずに晩年まで過ごし、
89歳まで生きています。

ちなみに、彼は一緒に被爆した看護師と
結婚しましたが、
彼女との間にできた3人の娘も元気に育っています。

彼がスタッフに指示していた内容が
有名なこのフレーズ、

「爆弾を受けた人には塩が良い。玄米飯にうんと塩をつけて握るんだ!塩からい味噌汁を毎日食べさせろ。そして、甘いものを避けろ。砂糖は絶対にいかんぞ」

第四章 忍び寄る魔の手より

だったそうです。

もともと体が弱く、
学童期の彼を特徴づける言葉は
『病弱』『神童』
の4文字であった

と、哲学者の高橋眞司氏は解説を寄せています。

同じく解説には、このような文言も。

「みずからアレルギーの特異体質、ぜんそく、結核に苦しみ、「多病虚弱」のゆえに医学に志した秋月にとって、病気にかかってからの「対症療法」ではなく、疾病にかからない、そして病気にかかっても重症化しない体質を作る「体質医学」こそ生涯のテーマであった。

原爆投下時、秋月が責任を負っていた浦上第一病院の職員と患者がひとりも死者を出さずにすんだのは「秋月式栄養論の成果」であったという」。

高橋眞司氏による解説


爆心地からの距離=被爆した放射線量
に比例するカタチで、ほとんどの人が
順番に命を落としていた、というこの時代に、

  塩と味噌、そして玄米

で、患者とスタッフの命を守ったというこのエピソードは
にわかには信じられないかもしれません。

彼はこれを、“ミネラル療法”と呼んでいました。

 塩、味噌、玄米=ミネラル

なのです。


化学物質過敏症の体質は、
身体が処理できる化学物質の量を超えて
取り入れてしまったことにより
(母体からの経世代濃縮も含む)、
起こっていると考えると、

取り入れてしまったものを
出すことが大切なのだと思います。

この”出す”という点で、

 塩・味噌・玄米=ミネラル

は鍵を握っているように思えてなりません。

もちろん、化学物質過敏症でなくても、
免疫力アップや有害物質のデトックスが必要とされる
今の日本人全般に活かせる知恵ではないでしょうか。

最後までお読みいただき、
ありがとうございました。

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