能『隅田川』ー物語とその背景ー
はじめに –『隅田川(金春流は「角田川」。以下「隅田川」と表記)』の粗筋、舞台、魅力
舞台は武蔵国と下総国の間を流れる隅田川。時候は春。時は三月十五日の夕暮れから明け方。
都から知人を尋ねるべく武蔵国に達した旅人(ワキツレ)。隅田川を隔てた下総国へ渡る為、船頭(ワキ)に頼み乗船する。そこに同じく都から子を探し狂女となった女(シテ)が現れる。船頭は乗りたいのならならば面白く舞え、と要求し女は『伊勢物語』の「東下り」の段を巧みに引用しつつ自分がここへ来た訳を伝えた。船頭は女の優しさに感心し乗船を許可する。
船中、旅人は向こう岸の柳の下に人々が集まっている事に気づき、その訳を船頭に問う。船頭はその来歴を語り始める。
その柳は昨年の三月十五日、人商人に拐われた京都北白河吉田某の一人息子、梅若丸という少年が死に、その墓標として植えられた物である事が明かされる。
狂女が探している人こそ、その梅若丸に他ならず一同その柳の元へと急ぎ念仏を唱える。すると微かに息子の声がした。母親が再び念仏を唱えると、彼女の前に息子の姿が現れる。互いに手に手を取ろうとするが息子は再び消えて行く。
東の空は次第に明るくなり、後はただ荒漠たる景色が広がるのみである。
行方知れずとなった我が子を母親が探すべく、全国を放浪する狂女物『隅田川』は他のそれとは違い、子の死という事実に直面する悲劇である。
作者は世阿弥の嫡男・観世十郎元雅(一三九五―一四三二か)。
舞台中央に塚。太鼓なし。面・深井。
この能の見どころは次の通り。
一、筋の巧みさ
二、悲劇性と現実性
三、巧な古典からの引用
四、舞台演出
一 登場人物の機能について
この物語には三人(+亡霊の子一人)の登場人物で構成されているが、どの人物もそれぞれの性格を巧みに描き分けている。それのみならず、物語の進行上に不可欠な機能をも担っている。
シテたる息子を探す狂女は物語の中核をなす人物である。そして後述するワキたる船頭との絡みにより、上手い対比構造になっていると言える。
ワキの船頭は、隅田川の渡し守であるため、当然ながらその辺りの事情に通暁している。そのため、彼はこの物語における案内役と言える。そして彼は狂女や旅の男と異なり、辺境に住む田舎者である。『伊勢物語』の和歌を引く狂女に翻弄される彼を描写する事によって細やかなユーモアーと共に狂女はただの女ではなく聡明な人間であるという性格描写も出来ている。
ワキツレたる旅の男は、観客と同様の目線に立つ人物だ。それに加え京都から知人を訪ねて来たという設定を付与する事によって、今現在自分がいる場所がどの様な所なのか都と対比させて説明させているが、それがとても自然な導入となっている。さらに、彼はその場所について全く知らない為、観客の抱く疑問を聞き出す役目を持つ。
二 物語の持つ悲劇性と現実性について
前記した様に悲劇の能たる『隅田川』。その悲劇性は物語の随所に現れる「やさしさ」によりその側面がより強調され、その結果非常に現実性の強い物語となっている。
この物語に描かれた「やさしさ」とは具体的には、母の優しさ、逆縁ながら弔う旅人の優しさ、見ず知らずの梅若のために塚を築いてくれた鄙人たちの優しさである。
それら「やさしさ」の重積が一同を梅若の墓の前に導くが、当然ながら死んだ人間は亡霊である。どうしてもそれとは交流する事が出来ない。そして後に残るのは武蔵野の荒漠たる野のみである。
亡霊と対面するという非現実的な展開をしながらも、それとは絶対に結ばれる事がない。この振り幅によって彼岸には行けない此岸の人々というものが強調され現実の無情さを強く感じる事が出来る。またこの様な悲劇が「悲しい」というイメージを伴っている秋や冬ではなく、春であるという事に元雅の秀逸さを感じる。
三 『隅田川』と「東下り」
『隅田川』は「東下り」の段と共にある。「東下り」なくして『隅田川』は生まれ得なかった。それは作中に散見される「名にし負ふ」、「業平」等から明らかであり、観世元雅は『伊勢物語』の持つ、恋しいと思う心をこの作品に投射したかったのであろう。
武蔵国は『続古今和歌集』源道方の歌にもある通り「月の入るべき峰もな」い不毛で未開な土地であった。『伊勢物語』の「東下り」では深く書かれなかった現地人との交流が描かれている事によって「あと遠山に越えなし」た辺境の地に彩を与える結果となった。
四 子方を巡る世阿弥と元雅の議論
この謡曲には物語の結末部分に、狂女が探し求めていた我が子(亡霊)と再会するという感動的な場面があるのだが、これを巡って作者たる元雅と父、世阿弥は論争(『申楽談義』)となった。
実作者たる元雅は、子方は出すべく執筆したあのであるが、世阿弥は出さない事も「おもしかるべし」と真っ向から反対の立場に立つ。これに対して元雅は「えすまじき」と否定した。
それまで低い声の問答であったのが「南無阿弥陀仏」と子方の高い声が突然聞こえた方が驚きも大きく、またそれに伴う感動も一入である。そして、母と子の抱き合おうとするが消え消えと失せ行く無常な情景を見せるにはどうしても子方はなくてはならない人材と言わねばならない。
おわりに ―謡曲「隅田川」と梅若伝説について
以上、縷々謡曲「隅田川」について思う所を書き記した。
最後に謡曲「隅田川」の〝原案となった〟「梅若伝説」を紹介する。
『江戸名所図会』の「梅若丸の塚」の項(昭和四三年角川文庫版『江戸名所図会(六)』頁二二八―二三四)にはかなり詳細な梅若伝説の説明がなされている。引用すれば次の通り。
縁起〔引用者注以下同じ・現隅田川区堤通二―一六―一に梅柳山墨田院木母寺に伝わる『梅若権現縁起』のこと〕に云く、梅若丸は洛陽北白川吉田少将惟房卿の子なり。(同じ縁起に、惟房卿嗣なきを憂へ、日吉の御神へ祈願ありて後儲けられたりし児なれば、春待ち得たる梅が枝に咲き出でたりし一花のこゝちすればとて、梅若丸と号くなりとぞ。)五歳にして父に後れ、七歳の年比叡の月林寺に入りて習学せり。〔中略〕はては闘争の事出でにければ、梅若丸は潜に身を遁れて北白川の家に帰らんとし、吟ふて大津の浦に至る、頃は二月廿日あまりの夜なり。然るに陸奥の信夫藤太といへる人商人に出あひ、藤太が為に欺かれて、遠き東の方に下り、からうじてこの隅田川に至る。時に貞元元年〔七九五〕丙子三月十五日なり。路の程より病に罹り、この日終に此地に於いて身まかりぬ、いまはの際に和哥を詠ず。
尋ねきてとは゛ゝこたへよ都鳥すみだ河原の露とて消えぬと
この時出羽国羽黒の山に、下総坊忠円阿闍梨とて貴き聖ありけるが、適こゝに会し、土人と共に謀りて、児の亡骸を一堆の塚に築き、柳一株を植ゑて印とす。翌年弥生十五日里人集まりて仏名を称へ、児のなき跡をとむらひ侍りけるに、その日梅若丸の母君(同じ縁起に、花御前とす。美濃国上の長者の女なりとあり。或は云ふ、花子とも。後薙髪して妙亀尼と号く。第六巻浅茅が原の条下とあはせみるべし〔現在の台東区立石浜公園の近くに梅若丸の母・花子を祀ったとされる妙亀塚がある。(昭和四三年角川文庫版『江戸名所図会(五)』頁四〇〇―四〇一参照)〕。(後略)
この伝説は史実なのか、それとも後世の人間による創作なのかはわからない。しかし、少なくとも『今昔物語』等に見られる様な人商人がこの時代に存在していたため、似た様な事件はあっても不思議ではない。
とはいえ、私は「梅若伝説」に似た事案は確かに発生したが、伝説そのままではなくさまざまな事実が複合的に寄せ集まって出来たという立場をとる。その中でも能の影響が最も強いと考える。
先に引用した「梅若丸の塚」項でも「梅若丸の事蹟は先に挙げたる如く、『秋夜長物語』及び謡曲の『桜川』等の俤相似たり。」(頁二三三)とあるし、伝説において登場した「吉田少将惟房卿」、「花子」は世阿弥による謡曲『班女』の登場人物であるし、美濃国という舞台も一致している。そして『江戸名所図会』においてはは「梅若伝説」の根拠として「梅若権現縁起」を引いているが、一六七九年と後世に書かれたものである。
謡曲『隅田川』の筋に似た文章は『江戸名所図会』において二つ紹介されている。その一つは『回国雑記』(一四八七年)であり僧侶・道興(一四三〇―一五二七)は隅田川について次の様に読んでいる。
かくてすみだ河の辺にいたりて、皆々哥詠みて疲講などして、いにしへの塚の姿あはれさ、今のごとくにおぼえて、
古塚のかげゆく水のすみだ河きゝわたりてもぬるゝ袖かな
又、万里集九(一四二八―不明)の詩文集『梅花無尽蔵』(一四五八―一五〇二)には次の様な漢詩がある。
隅田在武蔵下総両国間。路傍小塚有柳。〔書き下し=引用者以下同じ。隅田は武蔵と下総両国の間にあり。路傍の小塚に柳あり。〕
河辺有柳樹。盖吉田之子梅若丸墓所。其母北白河人。云々。〔河辺に柳の樹あり。蓋し吉田の子梅若丸の墓所。その母は北白河の人。云々。〕
いずれも「梅若伝説」について述べているが注目すべきところはどの文献も観世元雅の死後に書かれたという事だ。
私は右の理由によって『梅若権現縁起』に書かれている伝説はそのままの伝説ではなく、複合的な事実の集合であり、元雅の『隅田川』はそれらの伝説とは全く違う場所から取材し筋をこしらえたと推察する。
(了)
参考資料
・『江戸名所図会(五)』(昭和四十三年・角川文庫)
・『江戸名所図会(六)』(昭和四十三年・角川文庫)
・西野春雄「中世能の作者と作品」『岩波講座 能・狂言 Ⅲ能の作者と作品』(一九八七年・岩波書房)
・羽田昶「能 「隅田川」のこと」『武蔵野文化を学ぶ人のために』(二〇一四年・世界思想社)
・村上湛『すぐわかる能の見どころ―物語と鑑賞139曲』(二〇〇七年・東京美術)
・横道萬里雄「能の演出」『岩波講座 能・狂言 Ⅳ能の構造と技法』(一九八七年・岩波書房)