「先生っていうのは」
今ではそんなこと思わないけど、
学生の頃は学校の先生が絶対的な存在だった。
大きく分けると学生が入っているコミュニティって、
家族・学校・バイトだろう。
もちろん学生の頃から家庭の事情で家族から離れている人、
学校に行きたくても行けなかった人、自ら行かなくなった人、
バイトも絶対しなくちゃいけないってことはないから、
当てはまらない人もいるけど、
主にこの3つのどれかのコミュニティに属して生活している。
日本は義務教育というのがあるくらいだから、
特に10代は学校というコミュニティに属する可能性が高い。
そして、その義務教育というのは「答え合わせ教育」だから、
「正解がある」ことを徹底的に教え込まれる。
どんな問題が来たって、必ず正解があるからね。
「正解がある」ことを徹底的に教え込まれると、
その問題を解決する答えを知っている「先生」が絶対に正しいと思ってしまうんだ。
だから、先生のことを好こうが嫌おうが絶対的な存在になってしまう。
もう一回書くけど、今ではそんなこと思わないんだけどさ。笑
でも、よく考えてほしい。
いや、そんなに考えなくてもわかるだろう。
先生は絶対的じゃないだろう。
学校の先生は教科書の答えを知っているだけ、
学校のルールに沿って正しい・悪いを判断しているだけ、
社会的に見て正しい・悪いを判断しているだけ、
もしくは先生個人的な主観で正しい・悪いを判断しているだけなんだ。
だから、個性を潰そうとするんだ。
だって、社会は個性を潰して何も考えられないような人間を作ってるからね。
そんな人間を作る基となっているのだ義務教育だ。
そんな人間を作ってしまっているのが学校の先生だ。
もちろん、学校の先生にも良い人はいる。
だけど、学校の先生本人の人生経験が少なく選択肢や視野が狭い人が多いと感じる。
学校の先生本人が答えをもとめている。正解があると思っている。
それで生徒に多くの気づきを与えることは厳しいんじゃないかな。
俺は先生っていうのは
「選択肢があることを教えられる人・選択肢があることに気付かせてくれる人」
だと思っている。
「今を生きる」のジョン先生、
「ミュージック・オブ・ハート」のロベルタ先生、
のような人を先生と呼ぶんだ。
ジョン先生は厳しい校則の中、堅苦しい生活をしている生徒に対して
「教科書なんて破り捨てろ!」と言い、
詩の素晴らしさ、生きることの素晴らしさを伝える。
生徒もそれに刺激を受け、規則に縛られない自由な発想を持つようになり、
親の期待に応えない自分がなりたい生き方をしていいんだって気付く。
ロベルタ先生は荒れた学校の生徒を音楽を通じて人間的な成長を指導し、生徒の可能性を信じ続けた実在する先生だ。
座学だけではなく音楽を取り入れることによって、
学ぶ楽しさ・やりがいを感じ、それが生きる希望に変わっていく。
運が良いことに、俺にも先生と思う人はいる。
その人は学校の先生ではなく、社会に出た後で出会った人だ。
「それだけがこの世の全てじゃないでしょ。こんな可能性もあるよ。こんな選択肢もあるよ。こうでなきゃいけないってことはないでしょ。」
っていう気づきを与えてくれる人だ。
気付かせてくれたから、今の俺があるといってもいいな。
気付かせてくれたから、俺も誰かに気づきを与える人になりたいと多少は思っている。笑
最後にもう一回書くけど、学校の先生が絶対的な存在じゃないから。
先生っていうのは、
選択肢があることを教えられる人、
選択肢があることに気付かせてくれる人、
だから。