「可能性について。」
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不感症にならないためには、痛みを感じないといけない。
自己破壊の大切さを知りたかったら読んでみて!
では、本題。
映画・「ミュージック・オブ・ハート」を久しぶりに観た。
不倫した夫と別れ、二人の息子たちのためにも働き口を探していたロベルタ。
ある日知人から紹介をしてもらい、ニューヨークの荒れた学校でヴァイオリンの臨時教師として働くことになる。
最初は子どもたちに苦労するも、音楽を通し子どもたちも心を開いてき、徐々に彼女の授業は人気が高まる。
しかし10年後、市の予算削減により彼女のクラスの閉鎖が決まってしまう。
そこでロベルタは、クラスを存続させるためにチャリティコンサートを行うことを決意する。
というのがあらすじの、実話を元にした映画。
この映画を観ると、可能性がいかに大切かがわかる。
まず、他人の判断で可能性を潰すことはホントにもったいないんだよね。
たとえば、それまで授業を受けいた黒人の子どもがある日突然来なくなった。
その理由は、母親が「白人音楽を習わせることはダメ」と言ったからだ。
でも、
とロベルタが言っていたように、ロベルタは純粋に音楽を楽しんでもらいたかっただけなんだよね。
それに、音楽を楽しんでいる生徒の可能性を潰したくなかったんだよね。
差別問題は根深いかもしれないけど、その理由で子どもの可能性を潰すことはもはや罪だ。
それに、「難しい=可能性ゼロ」なわけじゃないんだよね。
難しくて弾けないからヴァイオリンクラスを辞めると生徒が言ってきた時に、
とロベルタが言っていたけどホントそう。
難しいからと諦めていたら、俺みたいな凡人はこの先何も出来るようにはならない。
そして理解すべきは、
「難しいから諦めて出来ることしかやらない」という行為は、未来ではなく永遠に過去に生きつづける行為だということ。
だってその出来ることとは過去に出来たことなんだからね。
過去に生きつづけているんだから当然現実は過去の延長線上のまま。
つまり、何も変わらない。
良い未来を作りたかったら過去を断ち切ること、難しくても・今できなくても可能性に賭けつづけることだ。
諦めなければ可能性はゼロじゃない。
じゃあ可能性の有無はどう判断するのかといったら、上述しているように本人が諦めなければ可能性がある。
そして次に判断できるのは、顔じゃないかな。
ロベルタはヴァイオリンクラスを受けさせないと言った母親に対して、
と言っていたけど、モノゴトに取り組む顔って大事だし結構見られているものなんだよね。
楽しんでいようが、悩んでいようが、良い顔をして取り組んでいれば可能性はある。
その微妙な加減を教師や人に何かを指導する立場の人間は判断しなきゃいけないし、自分自身でも取り組んでいる顔を意識しなきゃいけない。