【読書】アルジャーノンに花束を/ダニエル・キイス
どうしよう。泣けて仕方がない。
家の外で読んだのがそもそもの間違いだった。一応と思ってハンカチを用意しておいたが、本当に持ってきておいてよかった。
新版ということで、訳者が著者であるダニエル・キイス氏によせた追悼文としての訳者あとがきが掲載されている。訳者は、二十代の頃は感動の涙を流し、四十代になって運命に翻弄されるチャーリィへの同情の涙を流し、八十代にしてチャーリィは救われた、と安らかな涙を流したという。
私の涙は、なんの涙だろうか。
知能が上昇していくうちにチャーリィは様々なことに気付き、理解し、今までの自分の置かれていた状況に憤る。自分を馬鹿にしてきた人、蔑んできた人、突き放した人、知ることはときに残酷なことかもしれない。けれど、今までの仕打ちに怒り、見返したいと願うチャーリィをとがめる気持ちにはなれなかった。知能の上昇したチャーリィは凡人には、いや天才にさえも理解できないほどの知識、思考力を身につけていく。いつか理解したいと思っていた学生たちのおしゃべりのくだらなさに気付き、果ては自分を実験にいざなった博士たち研究団体の底までを感じ取るようになる。ただ、その過程で学び、思考することの喜び、愛のすばらしさにも気付いていく。いや、気付いたのではないかもしれない。本来彼は知っていたのかもしれない。言葉によって知識によってそれを深めたかもしれないが。
印象的な2つの場面があった。
ウォレン養護学校で、彼は過去の自分と生徒を重ねながら施設を見学し、職員たちから施設の説明を受ける。一人の少年が自分の作った作品をチャーリィに見せる。チャーリィは称賛を求めている少年に対し、不格好なそれを「とても上手だ、素晴らしい」と褒める。そして、空しさに襲われる。
知能が下降していくなかで、チャーリィは世話をして回るアリスに対してひどく苛立ち、つらく当たってしまう。壊したレコードや破った本を片付けられては我慢できずにどなってしまう。アリスのばかげていると思いながら口に出さない、といった態度に耐えられない。自分が侮られている、あしらわれていると感じたのだろう。そして、ウォレンで自分が素晴らしくもないのに素晴らしいと少年をあしらったことを思い出す。
このチャーリィのあちら側とこちら側(という表現が適切だとは思わないけれど)を行き来する(せざるをえない)思考、感情、やるせなさに涙があふれるのかもしれない。かつて、自分があしらわれる側だったことを認識する悔しさと憤り、そしてあしらったときの空しさや無垢な少年に感じた切なさのようなもの、もしかすると同情のようなもの、そして自分をあしらおうとする人へのやるせなさと苛立ち。この感情、まさに運命に翻弄される彼への同情から涙があふれたのだろうか。私自身にいい切れない感情が渦巻いて、抑えられなかった。
いろいろなことを忘れ、何を忘れているのかも忘れ、でも失っていくことはわかるという焦り、恐怖、悲しさ。それでも、友達への献花を願うやさしさ。
手放しでは喜べない結末かもしれない、けれど、私はこの話を悲劇だとは思わない。今回は迫ってくるチャーリィの感情にのまれることで物語を味わった。もう少し距離を置いて読むとまた違った気付きや示唆を与えてくれる本だ。次読むときには何を感じさせてくれるだろう、どんな涙を流すのだろう、と思いながら、本を閉じます。
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