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カフカ『変身』再読
中学生のころに読んだカフカの『変身』をまた読んでみようと思ったのは、ジョルジョ・アガンベンのハイデガーへの言及が念頭にあったからだ。Das Manへの頽落という日常的な状況にたいして、「死」をまえにした決意をもった生という在り様に、人間の本来性を見るという考えは、アガンベンによって見事に裏返されたように感じた。単純にいえば「頽落」はだめで「決意」がいいのだという倫理によって、「決意」の内容が示されないままにナチズムへと溶解してゆくさまが、容易に想像されてしまう。しかし根本的なことはそこではない。アガンベンは『ホモ・サケル』でこう書いている。
「ハイデガーの思考の本当に新しいところは、その思考が事実性に決定的に根ざしているという点だからである。今では、二〇年代の講義の公刊によって示されているとおり、ハイデガーにおいては、はじめから存在論は事実的な生の解釈学として提示されている。存在自体がその存在様態において問題になるという現存在の循環構造は、事実的な生の本質的経験を定式化したものにほかならない。そこでは、生を生の実際的状況と区別することができず、存在をその存在様態と区別することができず、伝統的な人間学の設けている諸々の区別(たとえば精神と身体、感覚作用と意識、自我と世界、主体と属性のあいだの区別)のすべてがなくなってしまう……ハイデガーにとって事実性の中心をなす範疇は頽落である。……現存在、すなわち自らのそこであるそこ存在は、このようにして人間の伝統的規定のすべてが不分明になる地帯に置かれ、人間の伝統的規定の決定的な衰退のしるしとなる」
グレーゴル・ザムザは「頽落」している、ごく普通のセールスマンだ。そのかれが突然「虫」になってしまう。「虫」には「精神と身体、感覚作用と意識、自我と世界、主体と属性のあいだの区別」のすべてがない。ただ存在するという事実そのものなのだ。だからかれの「変身」は突然であるというよりも、「頽落」の結果として、ある意味ではあたりまえの事件なのである。「変身」の理由がないのではなく、ごく普通のサラリーマンであることがその根本的な理由だともいえる。そういう意味ではザムザは「頽落」の本来性に帰着する。その事実性=ただ生きているという状況のゆえに、かれはさまざまなことを考え喋るのだが、「彼の言った言葉はもう人にわかってもらえな」い。
『変身』を読んでいると、もうひとつ面白いことに気付く。この小説は一人称の語りではないけれど、彼=グレーゴル・ザムザの視点にあたうかぎり接近した叙述で語りつづけられている。「虫」が見て、「虫」が考える。たとえば「天上にへばりついているのは気持ちがよかった」。「人間として生きてきた自分の過去を急速に完全に忘れてしまう」。「外界にたいする彼の無関心は非常に大きいものだった」等々。グレーゴルの語りなのだが、ある日突然そのグレーゴルが「くたばって」しまう。「まあちょっと来てごらんなさいよ、くたばってますよ。あそこに伸びてます、くたばって」。さてそこで終わってもいいのだが、その後にまだ数ページ、ザムザの家族の様子が語られるとき、読者は奇妙な錯覚にとらわれる。「彼」の心情や思考、行動にそくして語られたものがブラックボックスにはまったようにぽっかりと抜けて、語りの主体がまるで「死者」であるかのように突出してくるのだ。これは三人称小説で、生まれて育って死んでいくという人間を描いたという感じではない。むしろほとんど一人称に近い接し方で主人公の在り方を描いて、ついに死者となっても語っている、そういう小説のように思えてくる。
そこではっと気づくのだ。これはアウシュヴィッツの「回教徒」の語りではないのか。「頽落」はただ生きているという事実性に根差し、さらにそれは剥き出しの生として非-人間性に基盤を置く、アガンベンはそんなふうに書いていた。
「収容所においては、収容者たちは日常的かつ匿名的に死に向かって実存する、自分本来のものでないものの本来化は、もはや可能ではない。というのも、自分本来のものでないものは、すでに自分本来のものをすっかり担っていたからであり、人間は、いかなる瞬間にも、事実的にみずからの死に向かって生きているからである。このことが意味するのは、アウシュヴィッツでは、死と単なる落命、死ぬことと「一掃されること」を区別することはもはやできないということである」
カフカが『変身』で語っているのは、この死ぬことと「一掃されること」の区別がつかない生、生そのものにほかならない。だがここで、論理はぐるりとまわって、だから「頽落」した生は「決意」によって救いあげられなければならない、という循環に陥ってしまっては元も子もない。むしろdas Manを肯定することにしか、倫理はないように思える。わたしたちは、「剥き出しの生」に陥るさまざまな状況にいつも直面しかねない。たとえば入院したときなど、つくづく、自分がなにかただの物体になったように感じる。ほかにもいろいろな「例外状態」が考えられる。だがわたしたちは「虫」になることに抵抗しなければならない。そのために必要なのは「決意」ではなく、「剥き出し」ではない生であり、文化や伝統、歴史やコミュニケーションに絡まれた複雑な生の再構築なのだ。