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久女の自由

谺して山ほととぎすほしいまゝ

久女

「ほしいまゝ」とは、

①広辞苑。
自由。心のままであること。思う通り。自在。古くは、勝手気ままの意に用いた。綏靖(すいぜい)記「威福(いきおい)自由(ほしきまま)なり」。

②鈴木大拙「自由・空・只今」。
「自由の本質とは何か。これをきはめて卑近な例で云へば、松は竹にならず、竹は松にならずに、各自にその位に住すること、これを松や竹の自由といふのである。……松は松として、竹は竹として、山は山として、河は河として、その拘束のなきところを、自分が主人となって、働くのであるから、これが自由である」。

この論でいくと、久女の句は、山ほととぎすは山ほととぎすとして「自由」なる谺だということになろうか。しかし大拙の「自由」には、「として」というある種の臭みがある。これを東洋的自由と称するのは「自由」だが、この臭みに分を越えない、というどうにでも理解できる制限がつく。しかし山ほととぎすとしての山ほととぎすの「谺」は山ほととぎすを超える。久女の「自由」がはるかな空を仰ぎ見させる力をもっているのは、この「谺」のゆえなのだ。同時にそのとき「谺」は自らの主人を失う。これは指摘しておくべきだろう。自らが自らの主人であるという傲慢が、この「として」にはあるのではないか。創作や創造という行為には、自らの主人を超える力がある。それゆえに「谺」するのである。

茅舎にも「ほしいまゝ」の空があったのを思い出す。あざやかな色の対比。

蒼穹を鵙ほしいまゝ曼珠沙華

川端茅舎

ほしいまゝ花に残せる空の色


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