久女の自由
「ほしいまゝ」とは、
この論でいくと、久女の句は、山ほととぎすは山ほととぎすとして「自由」なる谺だということになろうか。しかし大拙の「自由」には、「として」というある種の臭みがある。これを東洋的自由と称するのは「自由」だが、この臭みに分を越えない、というどうにでも理解できる制限がつく。しかし山ほととぎすとしての山ほととぎすの「谺」は山ほととぎすを超える。久女の「自由」がはるかな空を仰ぎ見させる力をもっているのは、この「谺」のゆえなのだ。同時にそのとき「谺」は自らの主人を失う。これは指摘しておくべきだろう。自らが自らの主人であるという傲慢が、この「として」にはあるのではないか。創作や創造という行為には、自らの主人を超える力がある。それゆえに「谺」するのである。
茅舎にも「ほしいまゝ」の空があったのを思い出す。あざやかな色の対比。
ほしいまゝ花に残せる空の色