僕らは新興宗教の何を恐れるのか。『逆さに吊るされた男』【本の紹介】
読んだ本を適当に取り出して紹介しています。
前回『父・萩原朔太郎』を紹介したらスキが10ほど来まして、勝手に盛り上がっていました。朔太郎の知名度に対して知られてないので是非一読を。
今回紹介するのは田口ランディ『逆さに吊るされた男』です。
タイトルから推測すると、中世や占い、それに関連したミステリーだと思うんじゃないでしょうか。自分もそう思って本を取りました。
実際は全然違います。
主題はオウム真理教。地下鉄サリン事件の実行犯である死刑囚と主人公の交流を綴ったフィクションです。
センセーショナルな切り口によって洗い直されるのは新興宗教の問題だけではありません。
人間社会で生きるために必要な傲慢さ、優しくありたい人間がなぜ罪を犯してしまうのか……そういった他人事ではない話題にも発展していきます。
オウム真理教については正直よく知りません。生まれる前の話ですので。
割り切るのも違うんでしょうけど、解体され分派が残るだけになった宗教団体は自分たちの関心から外れている、という感覚です。対処すべき問題が山積している現状では「いまないもの」に意識を割きづらい。
「終わってない」とは理解していますが、他に動いているものが多すぎる。
なぜ新興宗教を怖がるのか?
オウムを体験していない自分にとって、ここは少しぼんやりしています。
しかし、その体験の有無は案外関係ないように思います。
人が新興宗教を怖がるのは、新興宗教がこちらに「実害」を与えてくるという共有されたイメージのため。
新興宗教に属する信者を社会に属する人間という枠組みから外しており、別の何かとして捉えている。
『逆さに吊るされた男』では、その先入観がまず破壊されます。
死刑囚であるYは、愛嬌と少しの情けなさを持った普通の男として登場するからです。
新興宗教に属する信者は自分たちとは違う。
無意識に張っていた防衛線は易々と破られてしまいます。
こういう不謹慎なユーモアがちょくちょく出てきます。
誰が言ってんだ、みたいな。
でも、常に申し訳なさそうにしているより人間的では……というのは、これがフィクションだからこそ考えられること。
自分の罪をアイデンティティの内側に組み込んでいるわけですからね。
これの対比として取り上げられるのが、実在する地下鉄サリン事件実行犯、林郁夫です。
裁判中に号泣したという記録が作中では提示され、これに対して主人公は疑念を抱きます。
「誤った宗教に加担し誤った行動をした」という役割を演じているのではないか、と。
この「反省」についても物語では語られます。
では自分が同じ立場だとしたら?
号泣して同情を求めるのでは?
Yはそうはしません。
不器用な人間だからです。
この本でのYの犯行動機は「他者に自身の役割を押し付けないため」。
オウムの教義に対しても疑念を持ち、逃亡を望む信者にはその手助けまでしていました。
なぜそんな人間が人を殺すに至ったのか?
その詳細についてはご自身でお確かめください。
余談ですが、中盤あたりで主人公が暴走するシーンも紹介します。
破綻している論理を積み上げおかしくなっていく様子は、どこか見覚えがあります。
支離滅裂な理論に気がつかない。
新興宗教以外にも共通する論理化の恐怖にも触れていて「オイオイオイオイ」とツッコミが止まりませんでした。
2014年から2015年の連載を書籍化したものなので、時代を先取りしていたということになりますかね。
気になったら是非ご一読を。
ではまた。