気にせず構える。ただそれだけ。
私は、大体いつも気にしている。
誰かの不機嫌そうな顔だったり。
誰かの悲しそうな顔だったり。
私のせいであろうと、なかろうと気にしてしまう。
厳しく叱られて泣いてる子供だったり。
理不尽に怒鳴られて泣きそうな顔の店員だったり。
明らかに私のせいでなくとも、気になってしまう。
気にしても仕方がないのに、
私の心のセンサーは、反応する範囲が広い。
まるで、ずっと開け閉めを繰り返す自動ドアのように
小さな風ひとつひとつに反応してしまう。
いままでは、それが自分にとっては、当たり前すぎて、なにも考えずに、ただ振り回されていたのである。
でも、今回、新しい職場で働くに当たって、ひとつ心に決めたことがあった。
それは、「気にしないこと」である。
気にしても、答えがでないことは、気にしないことにしたのだ。
例えば、不機嫌そうな人を見て、「私のせいかも」と思っても、本人に確認できないなら、気にしない。
遠くで泣きそうな人を見ても、なにも出来そうになければ、気にしない。
そうやって、気にする範囲を狭めたのだ。
なんだか冷たい人になってしまいそうな気もしたのだが、気にするだけで、何もしなければ、気にしないのと同じだと割りきる事にしたのだ。
とはいえ、気にしないながらも、私は優しい人でありたいと思っているし、誰かを助けられるなら、助けたいとは思っている。
もともと、他人を傷つけてまで、守りたいものなど私にはないのだ。
でも、私は優しくなれなくても、私は私を責めるのもやめた。
責めるのは、誰かを傷つけた時だけで十分だからだ。
いい加減、私は私を責めることに疲れたのである。
とはいえ、気にしすぎの癖は中々治らない。
不機嫌な人を見たら、不安になってしまうし、
私の自動ドアは、しょっちゅう開け閉めを繰り返している。
でも、それでも、私は大分楽になった。
私が、気にしすぎてしまう事を受け入れただけで、私は私に優しくなれたのだ。
今まで、私の中の鈍感さは、自己嫌悪と共にあり、
気にして疲れて、全てを放り投げしたくなった時に現れる最終手段の鈍感さは、自分の居場所を削っていたのだ。
自分で自分の地面を削っていたのだ。
自分本意な人間は、地面に立つ資格はないと。
でも、今の私は、言うことができる。
「そんなくだらない資格なんてくそ食らえ」と。
地面を削る必要なんてないのだ。
私に、正しい「気を使う」の用法容量を身に付けられる日が来るのかは分からない。
でも、それまでは、気にしない為のマスクを、うまく使いながら、適度にやっていきたいと考えている。
「気にするのではなく、心を配る」
私は、そんな人になりたい。
と同時に、私は誰かに必要以上に気を使わせてしまうような人には、なるべくなら、なりたくないと考えている。
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