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「賃金は労働の対価である」という考え方

「賃金は労働の対価である」という考え方は、自然発生的なものとして捉えることもできます。聖書には「働きたくない者は食べるべきでない」という趣旨の言葉が記されているからです。しかし、一方で、この概念が社会通念として定着したのは、通説によると、18~19世紀の産業革命の頃だとされています。工場制手工業の普及により大量生産が進むと、社会は「雇用主」と「労働者」という形に分化し、労働が「商品」として扱われるようになりました。そして、その「対価」として「賃金」が支払われる仕組みが一般化したとされます。ということは、「賃金は労働の対価である」という考え方自体は、人間に本来的に備わった性質のものではなく、条件によって定義付けられた環境要因に根差すものであることが分かってきます。
 
産業革命の時期、古典派経済学者たちは次々に「労働価値説」を唱えました。アダム・スミスは『国富論』(1776年)において、賃金とは「労働者が生活に必要なものを購入するための手段」であると説明しています。このような動きを背景に、労働契約が法的に整備され、「労働の提供」と「賃金の支払い」が一対のものとして原則化しました。
 
日本においては、1947年に制定された労働基準法によって「賃金は労働の対価である」という考えが明文化されました。同法の第24条では、賃金は通貨で直接労働者に支払われるべきと規定されています。この法律は、戦後の混乱期において労働者の権利を保護するため、また、GHQの民主化政策の一環として制定されました。当然そこには、戦時の労働力の動員を目的とした賃金統制や労働市場の統制を解除し、労働に対する新たな基準を定める必要があった社会背景が存在します。
 
1955年には日経連から『職務給の意義』が発表され、「学歴や年齢、生活費を基準とする賃金制度は労働の対価という本質に反する」と明記されました。その後、1959年の最低賃金法や2007年の労働契約法の制定を通じて、「賃金=労働の対価」という考え方は日本に根付いていきました。
 
一方、戦前の日本では「賃金」の意味は異なり、「生活を維持・継続するためのもの」という性格が強かったと言われています。たとえば海軍では、給与は生活費の増加に対応すべきものであり、物価騰貴や技能に基づくべきではないとされました。大正デモクラシー期には、民主化と共に天皇機関説という学説まで現れ、いかに国体を、つまり天皇制を維持していくかが国家のかじ取りとして、最重要視されるようになりました。そのため、治安維持の目的で、また、資本主義によって生じた貧富の差を是正する目的で、貧民救済の考えが「賃金」に反映されるようになりました。
 
さらに時代を遡り、明治時代には、年単位で職場を移動する「渡り職工」と呼ばれる人たちが労働者の大半を占めたと言われます。そういう時代背景においては、時間当たりの賃金制度は「隷属的な労働」を連想させたといいます。先程の海軍の賃金に関する考え方の中では、「労働の対価である」賃金制度のことを「賃金奴隷根性を培うもの」と痛烈に批判していました。
 
1940年にはパイロット万年筆の渡部旭が『賃金制より観たる月給制度』の中で、欧米流の契約賃金説や労働商品に由来する賃金制度を指して「資本主義むき出し」と表現し、日本には適さないと主張しました。彼は、賃金を能力ではなく家族を養う手段と考えるべきだと述べました。この考えは、戦後の賃金体系のスタンダードとなった、いわゆる「電産系賃金制度」に引き継がれ、低く抑えられた基本給に各種手当といった日本独自の賃金制度を構成するきっかけとなりました。
 
やがて日本でも、オイルショックやバブル崩壊以降の失われた30年と呼ばれる時代を経て、評価制度や目標管理制度が普及し、「仕事における成果」と「賃金」が連動するようになりました。そうやって、「賃金は労働の対価」という考え方が当たり前になりました。しかし、わずか半世紀前まで、「賃金」とは生活を支えるためのものであり、「労働の対価」という一義的な捉え方ではなかった点を忘れてはいけません
 
当時の「生活給」としての「賃金」を知るには、出光佐三の著作『マルクスが日本に生まれていたら』『「人の世界」と「物の世界」』『働く人の資本主義』などが参考になるでしょう。

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小林範之
最後まで読んでいただいて、どうもありがとうございました。