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ヒオカ『死にそうだけど生きてます』

ヒオカさんがnoteに投稿した『私が"普通"と違った50のこと』という記事が大反響を呼び、書籍化したのが本書です。
(現在はその記事は閲覧できません)

ヒオカさんはかなりの貧困家庭出身で、
世帯年収は100万以下だったそうです。
幼少期から様々なことを諦めなければならず、特につらかったのは
習いごとをさせてもらえなかったことだと言います。

本書は
「そんな辛い過去があったからこそ今の私がいる」
「幼少期の苦労があったから、成長することができた」
という美談を語った本ではありません。
ましてや、不幸自慢をしている本でもありません。

こんな現実があるんだ、ということを綴った本になります。



学生時代~就職まで

貧困家庭ゆえに塾には行かせてもらえるはずがなく、
さらに中学時代のいじめが原因で不登校になってしまいます。
それでも図書館で本に出会い、フリースクールや相談室で独学で勉強をし、市でトップの進学校に進学、さらには関西の国立大学に合格します。

しかし大学に進学した頃から、体調が急激に悪化していきます。
格安のシェアハウスでの生活は、著者の心身を大きく蝕んでいきました。
ストレスによる腹痛は収まらず、まともな食事を摂ることができなくなり、ぐずぐずに煮たおかゆや豆腐を少しずつ口にする日々。
体重は激減し、生理がこなくなりました。

さらに就職活動は困難を極めました。
入社した一社目の会社はパワハラが原因で退職。
友達の家に居候させてもらいながら就職活動を続けますが、
書類審査すらなかなか通過できません。

奨学金の返済もしなければいけない。
単発の派遣を繰り返す中で、新型コロナウイルスが流行します。
派遣会社から全ての日程のキャンセルが告げられました。
補填は一切なく、無職になりました。


noteに投稿した『私が"普通"と違った50のこと』がバズる

コロナの給付金問題をめぐって、著者は様々な意見を目にしました。

「非課税世帯は存在しないに等しい」
「”普通”に働いていたらそんなことにはならない」

本当に”社会に想定されない貧困”ってあるんだ、ということを
著者は嫌というほど思い知らされます。
そんな中でnoteに投稿したのが
『私が"普通"と違った50のこと〜貧困とは選択肢が持てないということ〜』でした。

この記事は、複数のインフルエンサーによって紹介され、記事はどんどん拡散されていきました。

noteに投稿した『私が"普通"と違った50のこと』は、
著者のその後の人生を大きく変えました。
当時のツイッター(現X)のフォロワーは激増し、
様々な人と出会う種になりました。

また、動画編集のアルバイトをはじめたことと、
noteのサポートが重ったことでまとまったお金ができて、
劣悪な環境のシェアハウスからウィークリーマンションに引っ越し、
その後アルバイトとライターの仕事をしながら生計を立てられるようになりました。
(本書を出版した後、著者は専業のライターになります)


想像する努力を手放さない

著者はライターになったことで、貧困への無理解や、風当りの強さ、「貧困叩き」の現実が想像以上であることを知りました。

著者は自分の体験を書くだけでなく、社会的に困難な立場にある人たちの取材をするようになり、その記事への世の中の反応から「生存者バイアス」の厄介さを痛感しました。

 人が「今、その状況にある」のは、そこに至る努力の結果というだけではない。タイミングや運、家族を含む人間関係、社会的背景など、あらゆる要因が複合的に作用した結果だ。そんなのは考えてみれば当然のことなのだが、「自分の努力のみで今が在る」と思い込んでしまう人は少なくない。そして、自分と似たような状況にあって、それを乗り越えられない人々に対して「努力不足だ。自分が悪い」と、いわゆる自己責任論を押しつけて、切り捨てる。
 しかし、よく考えてみて欲しいのだ。実際は、誰一人として、同じ条件ではないのである。スタートラインも違えば、背負っているものも違う。自分が乗り越えられたからと言って、似た境遇の人が乗り越えられるとは限らない。
 いろいろな要因が重なって、”たまたま”乗り越えられたかもしれない困難を、すべて自分の努力に帰するのは、あまりに傲慢だと思う。

ヒオカ『死にそうだけど生きてます』

自分の特権(強者性)を自覚することができれば、
他者に対する視点は大きく変わってくるはず。
たったの5ミリでもいいから、他者への想像力を及ぼす距離を伸ばしてみる。
その総和が社会を少し優しくするのではないか、そう著者は訴えます。


教育の平等

「貧乏は高校まで」
「高卒で働け」
「返せないものは借りるな」
「いいところに就職できなかった時点で、奨学金借りた意味ない」
「身のほどをわきまえなさい」

ネットはこういうコメントで溢れています。

『学ぶ意欲さえあれば貧しくても大学を卒業できる社会にしよう』
ではなく、
『貧しいなら学びはあきらめろ』
となってしまう。
ここに日本の貧しさがあります。

大学進学を”選べない”と”選ばない”では、天と地ほどの差があります。
貧困家庭に生まれたがゆえに選択肢が限られてしまうことは”仕方のないこと”なのでしょうか?

生まれによって我慢を強いられ、
夢をあきらめなければならな現実はおかしい。

どんな生まれであっても、学びたいと思えば志望する大学を受験でき、
目指す職業に就ける。そんな社会を見たい。
次の世代には、あきらめの連続を残したくない、と著者は訴えます。

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