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【日常エッセイ】私が好きだったのはハーゲンダッツの「容器」にすぎなかった話
久々にバイキングを食べに行った。
そのバイキングの売りは
「ハーゲンダッツ食べ放題」。
ハーゲンダッツなんて食べられてもせいぜい1個。いや、せっかく食べ放題なら2個行っちゃうか?などと胸ときめかせてバイキングに向かう。
まずは全メニューをぐるっと見渡したあと、
「どれどれハーゲンダッツはどこかな」と
探しに行く。
大々的に謳ってる割にはひっそりと端においやられており、ショーケースをのぞくと業務用の大きいスクープタイプのハーゲンダッツがそこにあった。
その時になぜか
「これじゃない」感
を抱いてしまったのである。
その正体はおそらくだが、あのハーゲンダッツの容器がないと“ただのめちゃめちゃ美味いアイス”になってしまうからだ。
いや、めちゃめちゃ美味いのだ。
めちゃめちゃ美味いことに変わりはないのだけど、私が食べたいのはハーゲンダッツの容器に入ったカッチカチのハーゲンダッツ。“めちゃめちゃ美味いアイス”には何故かそそられない。
これはおそらくポテチでもそう。
剥き出しにされたポテチより、カルビーや湖池屋の袋から食べるポテチの方がきっとそそられる。私の中ではそれがポテトチップスだからだ。
結局わたしは他の料理で満腹になり、スクープタイプのハーゲンダッツを食べることなく、
代わりにカラオケとかどこにでもありそうな
手絞りソフトクリームを申し訳程度に食べてフィニッシュとなった。
パンパンに育ったお腹を撫でながら
食べることのなかった“めちゃめちゃ美味かったであろうアイス”を思い出す。
なんだろうこの胸のモヤモヤは。
妙に覚えのあるこの感覚。
そう、私がハーゲンダッツと重ねていた幻影、
それは自分自身だった。
私は28歳の時に地元を飛び出し離島へと移住し、32歳を目前に内地に戻ってきた。
それまでは「島移住者」という独自のパッケージにくるまっていたが、島を離れそのパッケージが剥がされた今、私はただの30代女性でしかなくなる。
それは多分きっと確かに味気ない。
(おまけに仕事もしてない)
中身は何も変わってないのに。
でも逆に考えてみた。
パッケージで左右されるのは良いことなのだろうか?物事の本質を捉えられていないのではないか?
だって容器があろうがなかろうが、ハーゲンダッツはいつでも変わらない美味しさだし、私は島にいようがいなかろうが私だ。
例え「ディズニーランド」が名もなき遊園地になったとして、面白さに変わりはあるだろうか?
いや、ない。
むしろパッケージから放たれたその瞬間は、ブランドに左右されず本来の姿を楽しめる一番自由な時間なのだ。どこにも縛られることなく、どんな格好をしても良い。ちょっと羽目を外して生クリームを添えちゃったって良い。
そう、初めからパッケージなど必要なかったのかもしれない。
裸のハーゲンダッツから人生のあり方を学んだ夜。
名前を封じられたアイスたちを
これからは私が名付けていこう。
そして私も肩書きにとらわれず生きてゆくのだ。
名もなきソフトクリームを食べながら。