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君の側に(短編小説)

参加している文芸誌「空地」は文学フリマ東京38に出店いたします。ブースは東京流通センター第一展示場E-15です。そちらにて新作を寄稿しております。よろしくお願いします。

すべての場所に行き終えた夜に、僕は細く長くそして深い湖の畔のベンチに座っている。その木製のベンチはささくれ立っていて古いデニムに引っかかる。
ベンチに座る僕と湖の間の落下防止の低木が植えられている。それに雪が積もっている、と思ったら、それは初夏の季節の白いツツジが満開に咲いているだけだった。深い沈黙の夜にそれは薄くぼやけて見える。
 風の合間に湖畔に植えられた高木が音を立てるのを止めた時、僕はいつかの鮎子のことを思い出す。
 鮎子は赤いカーディガンを着ていてそれに黒く伸び放しになった髪が降りている、どこだったかは思い出せない、部屋を暖める暖炉か何かの火が鮎子を浮かび上がらせている。その光は黄色い壁を照らす。
 鮎子はセブンティーンアイスの包装紙を弄っていて材木がパキと立てる音の隙間にカサと音を立てている。
「チョコミントは、歯磨き粉の味がするから、良くないね」
「そんなの、知っていたことじゃないか」と確かに言った記憶がある。
 風がまた吹き始め、高木がまた音を立て始める、それに呼応して虫たちが強く騒ぎ出す。
「もう向かう場所は無くなってしまったよ」
「免許も持っていないし、行こうと思いつくのは知っている場所だけだもの」

どこに行ったって同じだった、なんて凡庸な結論を出すには随分長かったよ

 僕はハイライトに火を付ける。ふと立ち上がって白鳥を探す。白鳥は見当たらなかった。
 僕はシャツが酷く汗で湿っていることに気が付いた。前髪をかき上げて汗を拭いながら、鮎子が、白鳥の話をしていたことを思い出す。
「知ってる? 公園に放育されている白鳥はね、飛び立ってどこかに行かないように腱を予め切られているのよ」
 近くで二十四時間のストアを探して鮎子に手紙を出そう、と思う。
 昨日を繰り返すだけでしかない日々の中で、長く歩いてきた肉体の疲労しか確かなものがなかったとしても、それ自体の慰めで何かを解消しているだけでも、そんなことには関係のない鮎子に話がしたかった。それがこの湖に蛍が光る、そんな話のようだったとしても。
 僕はハイライトの火を揉み消して、吸い殻を真っ直ぐ投げ、湖に落とす、それは波紋も立てず、沈みもせず、浮かんでいる。

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