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人を殺してはいけない理由が存在しないということを理解してない人が意外と多い。

 ナンセンスすぎて、誰も言わない事をあえて言うナンセンスnote。約960字
 
 去年の11月に「人を殺してはいけない理由」についてのツイートが11万いいねというすごいバズり方をしていた。ツリーが長いので要約すると、トロピコという国家運営のゲームで反政府主義者を一度殺すと、常に殺すという選択肢が選択肢が頭に浮かんでしまうから。というものだった。

 これを読んで、「なるほど〜だから人を殺しちゃいけないんだなぁ」と思った人が居たら。非常に浅はか、もしくはロマンチストであると言わざるを得ない。

 他にも人を殺してはいけない理由でエゴサすると以下のようなものが多く見受けられた。

 ・人を殺してはいけない理由は自分が殺されないため

・人を殺してはいけない理由は逮捕されて最悪死刑になるから

・人を殺してはいけない理由は誰も他人の幸せを奪う権利はないから

 etc.他にも沢山いろんな人がそれっぽことをツラツラ書いていたが、上記の理由も含めすべて論破可能である。「無敵の人」の存在によって。

 つまり、「自分の人生いつ終わってもいい、殺されてもいいし、逮捕されてもいいし、他人の幸せ奪う権利がないとかしらねぇよ」と思ってる人にどれだけ道徳倫理を説いても、馬の耳に念仏であるという至極当然の理由である。

 何かこの世の公理的なものとして、「人を殺していけない明明白白の理由」が存在しているのでは?とぼんやり考えていた時が私にもあった。親が熱心なカトリックだったせいかもしれない。

 しかし、そんなものは存在しない。『これがニーチェだ』という永井均氏の本にはっきりと書かれている。

なぜ人を殺してはいけないか。これまでその問いに対して出された答えはすべて嘘である。道徳哲学者や倫理学者は、こぞってまことしやかな嘘を語ってきた。ほんとうの答えは、はっきりしている。「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、やむをえない」だれも公共の場で口にしないとはいえ、これがほんとうの答えである。

『これがニーチェだ』、永井均、p.28

 まとめると、俗に流布されている「人を殺してはいけない理由」は、社会共同体の中で生きていたい、これからの人生希望に満ち溢れてる人間には確かに、一定の納得をさせられるかもしれないが、それは本質的に人を殺してはいけない理由ではない。と言う事だ。

 似たような事をTwitterに書いたら「違いますよ、人を殺してはいけない理由は逮捕されたくないからです」みたいなリプをされたことがある。
 「それってあなたはそう思うだけですよね」と返したら。「違います。みんなそうです」と返されてしまった。こういう何も考えてないような人が沢山いるから、日本は平和なのかもなぁ。と、その時思った。

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