じぃじの戦争体験
この手記について
この手記は、父が孫に遺した手記です。家族の許可を得てここに載せます。
本文
じぃじは満洲で生まれ、満洲で育ち,戦争が始まった時は小学校の2年生の時でしたので、戦争の体験はありません。
戦争末期、日本では空襲があったり、沖縄での激しい戦闘があったり、国内の一般の民間人も多くの戦争の被害を受けていましたが、満洲ではそういうこともなく、戦争は日本が勝っているという話しか聞かされていませんでした。
1945年当時、じぃじは満洲の西、蒙古(モンゴル)との国境の町、「赤峰」というところに住んでいました。
じぃじが6年生の1945年8月9日、突然ソ連軍が北のソ連との国境を越えて満洲を攻撃してきました。満洲を守っていた日本軍は、その大半が南方の戦場に派遣されていたのでソ連軍を撃退することができませんでした。
赤峰でもいつ国境を越えてソ連軍が攻めてくるか判らないということで、赤峰に住んでいる日本人は、大人の男子以外、女の人・中学生以下の子供(男女)は全員緊急に避難するよう命令が出て、8月12日、じぃじもお母さん・二人の妹(京子・久子)と一緒にお父さんと別れ、赤峰の町の皆と列車で町を脱出して、安全な町に移動することとなりました。
出発当時はどこにいくのかもはっきりしていませんでしたが、最終的には列車の中や駅で仮眠しながら3日がかりで列車を乗り継ぎ乗り継ぎ朝鮮に向かうことになりました。
当時朝鮮は日本の領土となっていたので、ここに行けば日本の国に帰ったようなものでもあったのです。そして着いた先は、今の北朝鮮の「亀城」という町、着いた日が8月15日の昼ごろ。
着いたときは我々も、地元の人たちもまだ日本が負けて戦争が終わったとは知りませんでした。駅には日本の兵隊さんや地元の日本人や朝鮮人が日本の旗を振って迎えてくれました。ここに避難してきた日本人は我々赤峰の人たちだけでなく、満洲のほかの土地にいた人たちも大勢来ていました。そして仮の宿舎になっていた小学校の校舎に案内されそこで「おにぎり」の炊き出しなど地元の朝鮮の人たちも喜んで迎えてくれたふんいきでした。
ところがその日の夜、校舎の外、町の中では大声で騒ぎ立てる声がひっきりなしに聞こえました。日本が負けて終戦になったことが分かったのです。朝鮮の人たちによる暴動が起き日本人の会社やお店、個人のお家が襲撃されていたのです。幸い学校は警官や兵隊さんが守ってくれていたので襲撃されることはありませんでしたが、いつ襲われるかもしれず、みんなは明りを消して小さくなって一晩中よく眠れませんでした。
その2~3日後、ついにソ連の軍隊がやってきて町を占拠(せんきょ)しました。そして日本の兵隊さんたちが校庭でソ連兵の前で武装(ぶそう)解除(かいじょ)されたのです。その前の晩、日本の兵隊さんたちが校舎に来て日の丸の旗や、教室に飾ってある天皇陛下の写真や大事な書類を校庭で燃やしました。その日見てはいけないと言われていましたが、カーテンの陰からそっと見てみると、日本の兵隊さんがソ連の兵隊さんの前で一人ずつ持っている武器(小銃など)を次々に地面に投げ出しているのです。見ているだけで涙がいっぱいこぼれました。日本の兵隊さんたちはその後シベリアに連れて行かれたのです。そして赤ら顔でひげだらけの大男のソ連兵たちが毎日のように校舎にやってきては日本人たちから時計やカメラや高価な品物を略奪(りゃくだつ)(奪い取る)していきました。
朝鮮という国は、日本の敗戦により日本の支配から離れることになりましたが、北緯38度線より北はソ連が占領、南はアメリカが占領、北も南も未だ独立した国とはなっておらず混乱の中にあり、北朝鮮も駐留しているソ連もとても日本人を日本に帰す(引揚げ)取り組みを行えるような状態にはありません。日本からの救いの手もなくどこにも行くところもなく、やむなくこの地に難民としてとどまるしかなかったのです。
やがて避難していた日本人たちは、町はずれの大きな工場の跡の、機械類を取り外して何もなくなったがらんとした大きな建物の中に集められ、床にむしろを敷いただけのところで寝起きさせられました。そして相変わらずソ連の兵隊たちがやってきては金目のものを奪い取ったり若い女性たちを連れ去ったりしました。そのため若い女性たちは、頭を丸坊主にしたり男の服を着たり男言葉を使ったりと男に変装して過ごすようになったりもしました。朝鮮の人たちも中にはそっと親切にしてくれる人もいましたが、街中に出ると今まで日本人から受けていたさまざまな差別に対する恨みを晴らしてやると、いじめられたり暴力を振るわれたりすることもたくさんありました。
こうして日本人たちは集団で生活するようになりましたが、持っていたお金は何の価値も無くなり、持ち物もすぐにまた前の家へ帰れると思っていたのでほんのわずかな身の回りの物と夏服だけというありさまでした。これから‐20℃や‐30℃にもなる北朝鮮の地でどれだけの期間どうやって生きていくのか誰にもわかりませんでした。毎日の食料や着る物や寝具をどうやって調達していたのか、また北朝鮮やソ連が何をしてくれたのかは子供であったじぃじたちにはよく分かりません。ですが毎日僅な食料は配られ、着るものも凍え死なない程度のものは貰っていました。
やがて、冬が来るころ、赤峰からのグループ(定かではありませんが200人くらいいたのかなぁ)は、亀城の町を出て山の中の「東山面」というところに移動しました。そこは何の跡地かはわかりませんが、何の宿舎のあとか2~3棟の建物があって、1棟数十人ずつに分かれて生活することになりました。
建物は真ん中に通路があり、左右に一段高くなっているところが寝る場所で、そこはオンドルといって,外からその床下で火をたくと煙が流れて床が温かくなるというところ。そこにそれぞれ頭を通路に向け、一人50センチほどの割り当てで寝る場所が決められ,そこで寒い長い冬を過ごすことになったのです。
1日の食べ物は、家畜の飼料にするゆでたトウモロコシ1人茶碗に1杯。このトウモロコシ粒も大きいけど半端な硬さではない。朝から1日ゆでてやっと食べられる硬さになる。
だから、ウンチもトウモロコシの皮だけがひらひらと落ちる。トイレといっても気の利いたものなんてない。建物の外に大きな穴を掘ってそこに2本の板を渡し、その上にしゃがんで用を足すという訳。冬は凍るから何日かするとウンチは鍾乳洞の石筍みたいにタケノコのように上に伸びてくる。それを叩き割るのも子供たちの仕事でした。
大人たちは毎日農家やいろいろな作業などの手伝いに出かける(そのことで毎日の食料が得られていたのだと思う)。その中、時々は作業をした農家などで少しの食べ物をもらってきたりするのが子供たちにとって嬉しい飢えの足しでした。
男の子たちはもっぱら毎日山に入って薪を集めるのが一番の仕事。暖かくなれば山で食べられる山菜を懸命に探してとって来たり、谷川では縫い針を曲げて釣り針にして名もわからぬ魚を取ってきたり、時には畑や線路の草取りに駆り出されたり、結構サバイバルで元気にしていました。
小さな女の子たちはジッと留守番ばかりしているのでだんだん筋肉が衰え、栄養失調もあって亡くなる子もいました。
じぃじのお母さんはこの東山面で4人目の子供(幸子)を冬の寒い1月に産みましたが母乳の栄養が足らず、わずか1週間ほどで亡くなりました。また妹の久子(1歳半)もよちよち歩きもお話もできなくなり、妹の京子(小学1年生)もやせ細って足など骸骨の足のようにガリガリになりましたし、一時は肺炎になり高熱が出て死にかけたりもしました。
この人里離れた山の中の暮らし、毎日ひもじい思い、早く日本に帰って腹いっぱい食べたいという思うばかりの毎日ではありましたけど、朝鮮の人々にも滅多に会うこともなく,いじめや嫌がらせもないのが何よりの数か月でもありました。
そうこうするうち再び夏が来て、突然東山面を離れ北朝鮮から脱出し日本への帰国をめざすこととなり、全員で南朝鮮に向けて出発することとなりました。日本人の日本への引き揚げ事業が本格的に開始されたというよりは、北朝鮮やソ連もこれらの難民の扱いに困って北からの脱出を黙って見逃す形になったのではないかと想像しています。
脱出は、最初の先発隊が1946年8月11日に出発しましたが、その夜じぃじたちが寝ている建物の床を歩くと、丁度フライパンの上でゴマを煎ったように地面から何かパチパチとはじけて足に当たるのです。よく見るとそれは蚤(のみ)! 先発隊の人たちがいなくなって空き家になった建物にいた蚤が、人のいるじぃじたちの建物に集中して集まって来ていたのです。その夜はとうとう満天の星空の下で野宿することになりました。
1946年8月12日、乏しいながらもあるだけの食料・衣類を背負い出発しました。じぃじのお母さんは背中に久子をおんぶし胸の前には大きなリュックを掛け、じぃじも大きなリュックを背負いましたが、京子はガリガリで一人で歩くのがやっと。
亀城から2日ほどは止まったり動いたりの列車、といっても屋根の無い貨車(無蓋車)鉄管や材木などの荷物と一緒。雨が降っても日が照っても隠れるところも無くトイレすらままならない。何というところで下ろされたのか今になっては記憶も定かではありませんが、そこから先は徒歩。38度線を越え南朝鮮の「開城」という町迄何キロ歩くのか、5~6日、降っても晴れてもひたすら歩くしかない死ぬ思いの辛い旅でした。
途中、親切に途中まで荷物を乗っけてあげると言って牛車に荷物を載せてくれたはいいがそのまま持ち逃げされたり、ソ連兵の銃撃に会い藪に隠れたり、だんだん38度線が近づくほどに危険も多く、昼間隠れて夜中に歩くこともしばしばでした。
道を進むほどにだんだん我々のグループだけでなくよそから来たグループとも合流するようになりました。途中、歩けなくなった人が道端に倒れていたたり、座り込んで動けない人がいたり。歩いている人も自分のことでせい一杯、とてもその人たち助けることもできずただ黙々と歩くのみです。
じぃじたちも、京子が思うように歩けないしお母さんも背中に久子をおんぶしているので歩くのは遅く、同じグループの仲間たちからどんどん遅れます。最初のうちこそ休憩している仲間にやっと追いついたと思ったらもう出発と休む暇もなく歩かなければならなかったけど、そのうちだんだんみんなには追いつかなくなってきました。そしてついにお母さんが「もう私たちは歩けない、あなただけはみんなのところに追いついて皆と一緒に日本に帰りなさい」と何度も言うようになりました。じぃじはその度に「ダメだ!こんなところに残っては死んでしまう!一緒に日本帰ろう!」と懸命にお母さんと京子の背中を押して歩いたのです。
小高い丘の上から開城の町が見えたときどんなにうれしかったか、北朝鮮からの脱出者を収容する米軍のテント群を見て、やっと助かったと思った。グル-プの仲間たちからは1日ぐらい遅れての到着だったのではないでしょうか。1946年8月18日の夕刻でした。
到着したその日、お母さんが背中から久子を下してみたら久子はもう亡くなっていました。さっきまで弱ってはいたけどまだ息をしていたのに…。せっかくここまで頑張ってきたのに…。
しばらくはこのテント村で過ごした後、ここから釜山に列車で送られ、ついに日本の貨物船に乗せられて1946年9月7日 博多港に帰りついたのです。
その後じぃじのお父さんと生き残った家族全員が日本で再会出来たのは1946年12月のことでした。