0706『煙の樹』断片的感想。
はじめに
もう半年以上前に読み終わり、もう覚えていない部分もあるし、感覚も失っているから、断片的に残しておく。
本と内容と救済と
『煙の樹』は<全米図書賞>受賞作品。ベトナム戦争を真正面から書いた傑作長編。らしいですが、<全米図書賞>がどれだけ意味合いあるか正直分からんw著者のデニス・ジョンソンも初めて知りました。
物語はベトナム戦争を舞台に、様々な人間が20年という時の中で、意思と運命にケリをつける、つけさせられる。アメリカや個人にとって、ベトナム戦争はなんだったのか。正直それを僕が知ることは不可能だ。ただ地獄の方がマシな理不尽なほどのクソバケツであり、天国ではない酒と女の楽天地などだろう。そこで生き延びるのに必要なのは意思の強さか、信仰の強さか。そして否応なしに訪れる救済とは?
だから登場人物の一人でもある二重スパイ、チュン・タンが仏教を信仰しているのは印象に残る。確かにベトナムは仏教が主流ではあるが全員ではないのにこの設定にしたのか。チュン・タンと同じく地獄を見てきたサンズ大佐はキリスト教を捨てている。その代わり彼は人を惹きつける程の意思の強さを手に入れた。その何かを成し遂げる意思の強さはアメリカ的だ。チュン・タンとスキップが辞書を片手に仏教とキリスト教を話す場面は印象的だ。
救済?それは人がそれだと指摘できるものだろうか。これについては後でまた述べたいと思う。
煙の樹について
煙の樹については本文にも出てくる。
『煙の柱がレバノン杉のように契約の箱の上に聳えていた──
『…すなわち血と、火と、煙の柱があるのだろう──
『…文字通りには──「煙の樹」
だが正直これが何を意味するかよく分からない。
煙の樹と聞いて、僕はあまり良いイメージは分からない。それは崩壊から生じて天に舞う砂塵のイメージしかない。ベトナム戦争という国と国の衝突から発せられる煙は吸ってしまった者の思考を鈍らせる。だから自分という存在をしっかりと感じていなくてはならない。この小説の登場人物たちは各自が二重スパイのような設定にもみえるが、その中で自分を自分たらしめているのは、というのもあるだろうが個人的にはそれほど必要でもないとは思っている。そういう設定なのは実際の戦争でそういうのがあるからであろう。
自分という存在をしっかりと感じていなくてはならない、ではその軸とはなにか。信仰か意思か。サンズ大佐は意思の人間であったが、尻すぼみ的に消えてしまった。ただそれはその意思が別の意思に取って代わられたのだろう。チュン・タンは失敗に終わっても、それなりの人生を手に入れられた。しかしそれは信仰ではなく運とも言えるだろう。人生とは?
現実としての救済と、小説としての救済
現実の出来事を小説のモデルにすること、この危険性は?
①作者の思想・思念が含まれてしまう
②現実の出来事が切り取られて、その現実ではなくなってしまう
③小説内における神的なものが生まれる。
この小説は主にベトナム戦争における情報戦をベースに書かれていると思うが、それがベトナム戦争の全てではないし、これが真実とも絶対的にはいえない。物語を進めるためのアクションも含まれているだろう。その中で生まれる救済は、真の救済か。いや救済がなければならない故の小説ならば、著者の考えが関与もするだろう。サンズ大佐の救済とは?救済は最後に訪れるわけでもない。
だからもはや現実の救済ではなく、小説という空間の中で、しかしそれゆえに生まれる現実と同等の神的な中で、作者の意図なく達成された救済は、ジェームズのバイク圧迫による死だろう。それは作られた偶然ではなく、真の偶然として成された出来事である。それ以外の救済は僕は分からない。
猿とは
僕は登場しているナニカが何を指しているのかを理解するのがとても苦手だ。だから人からこの小説に出てくる猿が東洋人を指しているのでは、という指摘は勉強になった。猿は最初の森から研究所まで登場し、それは殺す対象から変わっていっている。こういう見方に強くならなくてはいけないが、なかなか上手くいかない。
最後に
というわけで分厚い本を読み終わったのですが、意思より流れを重視する生活に憧れるなぁ、で終わりたいと思います。
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