グレート・ギャツビーが好きという話
スコット・フィッツジェラルドの1920年代のアメリカを舞台にした有名な古典作品で、1番好きな小説の一つです。ネタバレしまくります。
なぜ好きなのかがどうしてもうまく説明できない。Jギャツビーがデイジーを初めて家に招いた時の、花だらけにして時計を気にしまくる様子や、その後も嬉しすぎて何でもニックに話してしまうのがとんでもなく可愛い、そこからのプラザホテルの修羅場、からのニックにとっての最後の姿、からの子どもの頃の日記。この一連のカットにどうしようもない喪失感というか、どこかに持っていた問うてはいけない疑問の空欄にどばどば水を注がれたような感覚で涙が止まらなくなった。悔しいのに、Jの夢が叶うのはおとぎ話の中だけだと分かっていた、そんな自分が嫌になる。
だからといって、トムを憎むといえば、最低だと思いこそすれプラザホテルの詰める内容からの逃亡は、正義ではないが「正解」ではある。よって攻める相手がいなくなる。
最も去り際が人でなしなのはデイジーである。このまま逃げ切ると思われるひき逃げの当事者なので当然とはいえ、観察者であるニックのフィルターの効果もある。きらきらとした声と瞳の小柄なその名のような魅力的な姿はありありと浮かぶ(キャリー・マリガンのデイジーがビジュアルの解釈一致すぎた)。そんなデイジーが、これまた文字通り天使のような幼い娘について、「綺麗で馬鹿な女の子(a beautiful little fool)になってほしい、それが一番いい」、というのに心をえぐられる。とはいえ、今だにこの「馬鹿」に関するところの理解に自信がない。おそらく、親や夫に言われるままに動き、世の中が幸せと認めるものを幸せと感じ、夫の行動を疑うような観察眼を持たない、「自分の意志をもたない」ことなのだろうとは思う。デイジー自身の、自分の意志で選んだことが結果としてろくなことにならないという経験から出てきた言葉らしいといえる。それでも、「ろくにならなかった」ことに対してまともに向き合わない傲慢さや怠惰には気付いていないし、気付かないまま最終的にはマートルが、ウィルソンが、そしてJまでも犠牲になる。
続きはまた後編へ