104 本当の支援とは何か
「この競技、得点どうしましょう?」
肢体不自由学級を担任して、
体育祭が大きな壁であることに気づく。
従来の体育祭は、
それぞれの競技の順位で得点が入る。
3年生は最後の体育祭で当然盛り上がっている。
唯一わたしのクラスの子が参加する全員リレーも、もちろん得点加算競技だ。
この子が参加できる競技が、今年のプログラムは根こそぎなくなってしまった。
わたしはもう少しこの辺りにも、理解を示して欲しいという不満もある。
しかし唯一のこの競技は参加させたいし、そうでないとこの子は何のために体育祭に参加するのかわからない。
他にもできることを探して、放送などの部分で参加する様に考えている。
この競技にこの子は、とても短い距離を歩行器で参加する予定だ。
安全確保した上で、参加できる方法はないか、保護者と本人と複数回の話し合いをして参加を決めた。
交流学級にも話をし、「みんなでがんばろう」「この子のできないところは他の子がカバーしよう」と前向きに話を進めている。
当日の体調を見ながらではあるが、参加の方向で考えて全体の調整をしてきている。
そんな中、ある先生が「この子が走るとこのクラスの得点が不利ではないか」と言ったのだ。
わたしは心の中で虫唾が走るのを感じた。
この先生の言葉は続く。
「得点の集計方法を変えるか、他の方法を考えないとこの子に非難が向くのではないか。この子に参加を聞いてみて欲しい」と。
確かに非難はあるかもしれない。
勝負事なのだから。
でもこれは違う。
わたし達教員が、「この子が走ることに困難があるから」と得点を特別扱いすれば、それは差別ではないか?
ましてや子どもに聞くなど、あり得ない。
この子はきっと参加しないと言うだろう。
今でも口には出さないが、迷惑をかけていると思っている様な、繊細な心優しい子なのだから。
この先生の発言は、歌が苦手な子がいるからこのクラスは合唱やめましょう。
あるいは歌が苦手な子は外しましょう。
それとさして変わりない。
それは配慮という名前の差別だと思った。
わたし達教員が考えるべきことは、
非難がきた時に非難する側を指導することではないか。
久しぶりに心の底から腹が立った。
同時に優しさの中の凶器を見た気がした。
本当の支援とは何か。
差別とは何か。
ちゃんと考えていきたい。