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ラブドール|短編小説
文芸誌『現代人』第二号に掲載、2023年5月の作品。物に恋愛感情をいだく、対物性愛、日本ではバブル崩壊以降に増えていった現象ですが、ラブドールを題材に、ヒト・モノ関係を描いています。
BOOTHにて『現代人』第二号増補版をご購入いただければ全編お読みいただけます! また、『現代人』創刊号増補版は、Kindleで出しているので、ぜひ覗いてみてください。(名取)
ラブドール
上
白い石をしいた、塵ひとつない、うつくしい書斎で、僕はソファに俯いていた。しばらくして、煙草をふかした書斎のあるじがあるいてきて、真向かいの籐椅子に座った。あるじは口ひげを摩り、何を言うでもなく、しょげきって何も言えない僕を、さも愉しそうに観はじめた。
「……ほお、ずいぶん、損したらしいな。そういう切羽詰まった険相を、気のやさしいお前がするなんてな。むろん、生きるか、死ぬか、ってほどじゃなさそうだが。平和な時代にしては、いい面構えをしてるじゃないか」
よく切りそろった口ひげが、莞爾として笑った。
「……仁郎さん、ありがとうございます。……先ほどから、挨拶もせず、何も話せず、お詫びの言葉もありません。……まさに、その、ご明察のとおり、株価暴落で、すっからかんになりました。借金して、大もうけをねらって、まあ、こんなざまです。バブル崩壊、直撃です」
僕は、数回、から笑いをする。
口ひげは引き締まり、にびいろに脂ぎった。
僕はこめかみに汗を流し、しゃべり続ける。
「……正直、飲み屋で知り合っただけの仁郎さんに、こういうお願いをするのは気が引けます。気管支が詰まるというか、肺がつぶれるような苦しさです(僕はごほっと咳をひとつすると、まるで異様な発作にかかったように、ごほっごほっごほっ、もうれつに咳込んでみせた)……うっ、ううっ、仁郎さん、借金を返すお金が、ないんです。明日の生活費も、ないんです。僕の親は、畜産農家ですが、貧乏なんです。兄弟とは、音信不通です。すがる当てがないのです。……その、もちろん、仁郎さん以外にも友人はいますが、そいつらは……」
「まあ、落ち着け」
口ひげは、小鳥の翼のように、優しげである。
「お前の事情はよくわかった。要件を言うがいい」
僕の喉はからからだ。背なかは汗ぐっしょりだ。夏の終わりであるが、暑い昼すぎである。どこかの木で、ヒグラシがわらっている。 どうとでもなれ! 僕はとつぜん立ちあがる。ソファの脇にひざまずき、鼻水たらして平伏した。
「お金を、貸してください」
よく研磨された床に、自分のゆがんだ顔が映る。返事があるまで、起きようと思わなかった。仁郎さんだけが、最後の頼みの綱だ。
仁郎さんの鍛えられた長身から、煙草のけむりがしずかに吐かれた。
「良い」
「ありがとうございます!」
軍隊の敬礼のように、腹ぞこから声をだした。床がふるえるほどの叫びだったので、口ひげは声をあげて笑った。
「お前おもしろいな」
「ありがとうございます」
僕はソファにしずしずと戻ると、タオルで額をふいた。
「自慢する気はないが、私はうまく売り抜けた。国内株も、アパートも、あとそう、ゴルフ会員権も。危ないところだったがな。まあ、こんなのは、紙一重の運だ。自分で独り占めする気はない」
口ひげの下の歯は、あんまり笑わない。なにか、考えをめぐらせるように、舌が動いている。
「それで、いくら必要なんだ?」
「……その、百万円を、できれば」
「わかった」
返事は早かった。僕は体じゅうの酸素が抜けるほど息を吐いた。
仁郎さんは、灰皿に煙草をつぶす。
「しかし、ひとつ提案があるんだが」
「はい」
僕の背すじに何とも言えない寒さが走る。
口ひげは、蒲のよじれた葉のようなふくみ笑いである。
「五月の夜だったか、たまたま渋谷の飲み屋で隣りあって、ふしぎと意気投合して、朝まで飲んだだろう。あの晩は心地のいい風がながれていた。二人でならんで朝焼けの道をあるいたな。そのとき、今でも耳に残ってるんだが、お前は最後の隠し玉のように、きわめて興味深いことを言った。たしかそう、貯金を叩いて、特注のラブドールを造ったとな」
肺の底が冷えていった。
「そのラブドール、貸してくれないか」
くちびるが、臙脂いろの艶をあざやかに伸び縮みさせている。
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