文学フリマ初出店してみて実際どうよ?って話
文学フリマに出るまでのことを書いたところ、思いがけなくたくさんのかたにお読み頂けました。ありがとうございます。↓こちらです。
【文学フリマ初挑戦】PhotoshopもInDesignも使えない私がWardと写真切り貼りの超アナログスタイルで白黒コピーZINEを作る話(https://note.com/ichiya_bunko/n/n0335ca179e03)
実際↑これを読んでブースを訪れてくださったかたまでいらっしゃいました。ありがたい……。で、実際出てみてどうだったかをざっくり語らせて頂きたい。
会場が家から近かったので、朝の椅子と机のセッティングから参加しました。そう、文学フリマ会場のあの大量の机と椅子は、集合時間前にボランティアによって並べられているのです。
ま~~~大変ですよ!
あの大量の机をまっすぐ均等に並べるのは!
30センチ定規使って幅計ったりして調整してんのよ。まじで大変です。文学フリマのスタッフさんも思ったより少なく少数精鋭。実行委員長自ら先頭に立ってボランティアにインカムでバシバシ指示を出すのです!委員長やスタッフの皆さんの指示が的確なので、当日来た何も分からない我らボランティアもスムーズに作業にあたることができました。
机と椅子のセッティング、配布物を各テーブルに載せる。大量にきた荷物をヤマトさんが巨大な台車から下ろすのを手伝う。そんなことをしていたらあっという間に開場時間でした。ボランティアをすると作業が終わったらすぐ会場に入れるという役得があります。スタッフさんに受付をしてもらって皆さまが外で並んでいるのを見ながら、まだ人のまばらな会場でのびのびと本を並べました。
準備時間に本を並べたり、お隣のかたにご挨拶しているうちに、外がざわざわしている気配がなんとなく感じられました。Xのタイムラインを見れば、外には長い行列ができているとのポストがいくつも……。これはたくさんのかたが来てくださって混んでしまうかもしれない! ワクワク! と期待が高まりました。
いよいよ開場のアナウンス!
やがて入り口から雪崩れ込んでくるたくさんの人、人、人! そのたくさんの人の群れが……
私のブースの前を見事にスルーして通過していきました。
……いや、分かっていますとも。
こちとら無名の新人。しかも作っているのはキンコーズのセルフコピー機を長時間独占してせっせと刷った白黒中綴じコピー本。対して天下の文フリ様には出版社様のブースもプロの作家様のブースもある。そして皆さん印刷所を使って色とりどり様々な体裁の素敵な本を作って並べていらっしゃる。
そりゃね、無名の新人の白黒コピー本がいきなり見てもらえたり、ましてや売れるだなんて、そんなおこがましいこと1ミリも、1ミクロンも思っちゃいませんよ! ええ思ってませんでしたとも! スルーされるのなんて全然想定の範囲内ですのよヲホホホホホホ!!!
と強がってはみたものの、やはり多少はショックでした。だってたっっくさんいらっしゃる皆さんが、誰ひとりとして私のブースなんか見てもくれないのですから!
私の好きなストリッパーでライターで書店員の新井見枝香さんがエッセイ『きれいな言葉より素直な叫び』(講談社)の中で「選ばれなかった私」という言葉をお書きでしたが、まさにそれ。
大量のお客さんが自分の前をドドドドドド……と素通りしていく。こんなに人がたくさんいるのに、誰の目にもとまらない。もう笑っちゃうくらい「全然ぜんぜん誰にも少しも ちっとも1ミリも選ばれない私」を噛み締めることになりました。
私は普段の仕事では、服やら布やら雑貨やらを売っています。こういうものはたぶん、本よりも売るのが簡単。
服や雑貨は生活上の必要があって探しにくる人が多い。最初からニーズがあるのです。加えてデザインや機能を気に入ってもらえれば、必要に迫られてなくても「可愛いから/便利だから、着よう!使おう!」となる。ニーズを生み出せるのです。
ところが本は、生きるための必需品ではない。見た目も大事だけど、結局立ち読みだけでなくある程度の量を読まなければ、自分に合うかどうか分からない。好きな作家の本を選べば多分ハズレはないけれど、全然しらない人間の書いた知らない本を買うのは、なかなかのギャンブルです。ましてや文フリのような巨大イベントで限られた予算でのお買い物となれば、シビアになるのが当たり前。
すでに人気のある作家さんならともかく、無名の新人の白黒コピー本が売れるわけがない。
そりゃそうですよね……としょぼんとしかけた私。ところがところが。
なんと!しばらくしたら!ポツリ…ポツリ……とお客様が来てくださったのです! 神か!
「寄稿している◯◯さん目当てで」
「ネットの文章読んでました」
「見本誌コーナーで見て」
そんなお客様の存在が、どれほどありがたかったことか……!
売れなかったとしても、通りかかって立ち読みしたり、質問してくださるお客様の背中に、どれほど眩い後光が差して見えたことか……!
自分の前を流れていく大量の人波にしょんぼりしかけた私は、来てくださったお客様を前にして、スルーされることも悪いことばかりではないと考え直しました。だって、たくさんの方にスルーされればされるほど、立ち止まって見てくださるお客様のありがたみが何倍にも何十倍にも何百倍にも増幅されるのですから!
全然買ってもらえなくていいんです!
手に取ってちょっと読んでいただけたり、ちょっとお話してもらえるだけで、めちゃくちゃありがたいんです! 読んだり話したりしたら買わなきゃ悪いとか思わないで頂きたい! そういうのを考えてか「表紙をじぃぃぃ~っと凝視するけど手にも取らない」みたいなのがいちばん切ないので! 本は表紙見ただけじゃ内容分からないですよ! 中身を読まなきゃ!
そして文フリのどこかで何かしらお買い物をしてくださった貴方様は……神様です! まじで神様です!
貴方様のようなお方が、日本の文学界の未来を作っていくのです!
いいですか、誰だって最初は無名の新人なのです。それを発見し育てていくのは誰か!?
そう貴方! 読者の貴方なのです!
今はモノを書くにも様々なスタイルやルートがあります。誰もが新人賞を目指して投稿して編集者の目に留まって本になって……という道を辿るわけではなくなりました。ネットで書いたり、紙の本を作って文フリで売るというルートができました。そして読者は、出版社のフィルターを通過する前の膨大な玉石混淆の作品や作者の中から、自分の好きなものを選び、育て上げていくことができるようになったのです。
かつて、新人賞を通過したものしか大衆のもとに届けられなかった時代は終わりました。今、読むことの自由は限りなく広くなっています。
その代わり、書き手にとっての競争の形もかつてとは変わっています。プロとしてデビューしなくても一定数のフォロワーを得てたくさんのひとに読まれるようになる可能性がある一方、才能があっても無数の作品の中に埋没してしまう可能性も高い。
そんな現代の文学を担う作家を育てるのは、やはり貴方、読者なのです。
逆に言えば、貴方が見つけて育てていかないと、貴方の知らないところで貴方の好みにドンピシャなものを書く作家が埋没し心が折れ次々バキバキバッキバキと筆を折っていってしまうかもしれない。本当に良いもの面白いものを書ける作者が筆を折り、SNSでの宣伝の上手い者ばかりが跋扈することになりかねません。
作品との出会いというものは不思議なもので、全然期待しないで読んだものに打ちのめされたり価値観をひっくり返されたり心の傷を洗い流されたりすることもある。逆に酷くつまらなかったり、腹が立って焚書したくなることもある。こればっかりは読んでみないと分かりません。そして様々なジャンルでなるべくクオリティの高い作品を探してたくさん読めば読むほど、作品との良い出会いの可能性は広がっていきます。
貴方が何気なく手に取った一冊が貴方の一生の友となるかもしれない。そんな素晴らしい出会いの可能性を広げられるか潰しまくるかは、読者の貴方自身にかかっているのです。
さらに私は、書き続けている作者の皆さんにもお伝えしたい。貴方は尊い。
書いたものを机の中に仕舞い込んで誰にも見せずに満足できるタイプのひとは別として、公募に出したりネットに文章をあげたり紙にして文フリに出たりしているひとは、みんなひとりのこらず多かれ少なかれ「選ばれなかった私」を経験しているはずです。一度もそんな経験なくバズるひとももしかしたらいるのかもしれませんが、それでも何らかの形で「選ばれない」瞬間を味わっているはずです。でも、書き続けている。選ばれない痛みを知りながら。さらに深い傷を受けるかもしれないリスクを背負って。
それだけで、めちゃくちゃ勇気のいることです。すごくないですか。
私達は「書かない」という選択をすることもできます。書くのなんか止めちゃって、書くのに費やしていた膨大な時間をゴロゴロしてお菓子を食べたりパチンコや競艇に行ったり投資して資産を増やしたりに使うこともできるはずです。でもしていない。ある種の人達から見たらまるで無為な「文章を書く」という行為に時間も労力も情熱も、ときには金までも費やしている。
私達は、知っています。それでも「書く」ということの素晴らしさを。「書きたい」という衝動の強さを。書き上げたものを自分で読み返したときの達成感を。書けたものが、もしかしたらいつか誰かに届くかもしれないという一縷の望みを。
傷ついても書き続ける貴方に、申し上げたい。
今書けなくても過去に書いた作品があるなら、それがいつか誰かに届く可能性はあるし、これからまた書けるなら、その可能性はもっと広がります。もしも人生の中で一作も書いていなかったとしたら、絶対に完全に誰にもどこにも届かない。可能性は0%のままでした。でも貴方は書いた。可能性はゼロではない。0.1や0.01と0の違いは大きい。
いつか老いて肉体的に書けなくなったとき、もしも万が一自分がまだ日の目を見ていなかったとしても、「自分がこれまで精一杯書いたものがこの世に残る。これから見いだされる可能性もゼロではない」のです。それは「一作も何も書けず本当に何ひとつ残らなかった」のとは、全く違います。作家として生ききって、自分が消えても作品は残る人生を全うできるのです。
「選ばれなかった私」を引き受けながら書き続ける貴方、その痛みから書けなくなりそうな貴方、いま書いているなら、すでに書いたものがあるなら、いつか選ばれる日がくる可能性は、永久にゼロにはなりません。紙に刷った文字は、意外なほど長く残ります。ネットで公開したデータはもっと長いかもしれません。ダウンロード等をされれば誰かの端末にも残ります。誰かの家の本棚やPCの片隅で何十年と眠っていて、あるとき突然見いだされるかもしれない。新たな読者に受け継がれていくかもしれない。その無限の可能性を信じていてほしいのです。
……てことで、私もこれからもぜんぜん選ばれなくても黙々と書き続けていきたいです。そんなわけでまた文フリに出ようと思っておりますので、どこかで昭和な白黒コピーZINEを見かけられた折には、ぜひお手に取ってご覧頂きたくお願い申し上げます…… もうっっお買い上げ頂くまでもなく立ち読みだけでウルトラスーパーありがたいですので! とりあえずお手に取ってみてくださいませ! これは私ごときのZINEだけじゃなくこの世の全ての作品に言えることなのですが、とにかく気になる本はとりあえず読んでみましょう! それが文芸の未来の礎となるのです! なにとぞ何卒! よろしくお願いいたします!