信州の旅〜中山晋平と高野辰之の里を訪ねて〜
はじめに
9月の3連休(9月14日から16日)に、ナウマン象で有名な長野県は野尻湖へ旅をしてきました。いつものように、我が愛車を駆っての旅です。
車の運転は、高齢の私に代わって長女が引き受けてくれました。信州への家族旅行は、2回目で、初めての旅は忘れもしない昭和58年の夏休み、私を含め総勢7名での旅でした。
当時は、関越自動車道も上信越自動車道も完成しておらず、また今のようにカーナビもなく、私が地図帳を調べつつ、不安を抱きながらの旅でした。今思うと、よく事故にも遭遇せず無事帰宅できたものだなあと思います。
あの頃に比べると、今は大抵の目的地まで高速道路が繋がっており、また車にはカーナビが備え付けられていますので、迷うことなく目的地へ向かうことができることには、隔世の感を覚えます。
童謡と唱歌のふるさとを訪ねて
私の愛車は、一路目的地の野尻湖に向けて走っておりましたが、長野県中野市に差し掛かった際、この地出身の作曲家「中山晋平」(以下、「晋平」とする)と、作詞家「高野辰之」(以下、「辰之」とする)の二人のことを思い出し、急遽両名の記念館を検索して、寄り道をすることにしました。
最初に足を運んだのは、「中山晋平記念館」です。
記念館の入り口には、秋の花、千日紅と白蝶花が咲きほこり、旅人の私たち家族を出迎えてくれました。
晋平は、日本のフォスターと呼ばれる美しいメロディーの作り手で、「童謡」「歌謡曲」「新民謡」3000曲を生み出した作曲家です。
晋平はこの地で生まれ、代用教員を経て上京し、劇作家「島村抱月」の書生となります。しかし、晋平は音楽への情熱が抑えがたく、東京音楽学校(現:東京芸大)に入学しました。
やがて、晋平は抱月に頼まれ「カチューシャの唄」を作曲します。この歌を当時の新劇女優「松井須磨子」が劇中で歌ったことで大ヒットします。
ここから晋平の作曲家人生が始まりました。
その後、晋平が作曲した「ゴンドラの唄」「船頭小唄」は、大正時代を代表する曲として多くの人に愛唱されてきました。
童謡では、「シャボン玉」「證城寺の狸囃子」、民謡では「東京音頭」の作曲家として活躍しました。
学芸員の方から聞いた話では、現在、晋平の生涯を描いた映画を制作中とのことで、近いうちに完成し上映されるそうです。その暁にはぜひ鑑賞したいものです。
次のスケジュールは、高野辰之記念館です。
辰之も中野市の出身で、国文学者なのです。辰之は、後に東京音楽学校の教授となり、時を異にして、同校に入学していた晋平と出会っており、その後二人の交流が始まったようです。
辰之は、文部省の小学校唱歌教科書編纂委員に委嘱され、作曲家の岡野貞一とコンビで「故郷(ふるさと)」をはじめ、「紅葉」「朧月夜」などといった、今なお歌いつがれる名唱歌を作詞して、世に送り出しました。
平成10年(1998年)の冬季長野オリンピックの閉会式では、辰之の「故郷」が合唱されたそうです。
「故郷」は、今や日本の愛唱歌として、多くの人達に歌われています。これから先も多くの人々の心を惹きつけ、歌い継がれていくことでしょう。
晋平と辰之の両記念館を後にして、北竜湖畔の宿で一泊。
野尻湖のナウマン象を訪ねて
翌日は、野尻湖の「ナウマン象記念博物館」へ向かいました。記念館は、夏休みも終わったところで、観客はまばらでした。
もっとも、最近のちびっこ達の関心事は、もっぱら恐竜にあるようで、ナウマン象のことはあまり関心がないようです。
しかし、日本列島はかつて大陸と地続きで、大陸にいたナウマン象が日本列島にも生存していたことが研究者らの発掘によって次々と明らかになっています。
野尻湖は、ナウマン象を始め、多くの動物達の水飲み場であり、野尻湖人達は、野尻湖にやってきたナウマン象や鹿を仕留めて食糧にしていたようです。
その当時の野尻湖人やナウマン象のことを思い浮かべながら記念館を後にしました。
先人達の旅への思い
今も昔も、旅への思いや感じ方は、どのように表現されていたのでしょうか。
近代になってからの詩人達の旅の作品を紹介してみます。最初は、旅の歌人と言われている若山牧水の旅の1首です。
幾山河越え去り行かば寂しさの
終(は)てなむ国ぞ今日も旅ゆく
(歌意)幾つかの山、いくつかの河を越えていったならば、その彼方には、きっとこの寂しさを尽き果ててしまうような国があるに違いない。そう思いながら今日も旅を続けていくのです。行けども行けども尽きない寂寥を見つめて旅をしているのです。
次に、俳人芭蕉の旅への思いを彼の作品でたどってみます。
野ざらしを心に風のしむ身かな
(句意)家を捨て旅に出るのだから、いつ野ざらし(白骨)になっても良いという覚悟を心に決めているのです。しかし、そうは思っても、秋の風は冷たく身に沁みることよ。 この句からは、昔の旅の厳しさがしのばれます 。
芭蕉の旅の句を、もう一句見てみます。
旅人とわが名呼ばれん初時雨(はつしぐれ)
(句意)旅に出ると出会った人から「旅のお方よ」と呼ばれることもあるでしょう。立ち止まってもせんないことだし、さあ、初時雨の中を出かけよう。
初時雨は、きっと冷たいことでしょう。これから先の旅の厳しさを想像させます。
最後に柳人(川柳家)達の旅の句を見ることにします。
佐渡おけさ佐渡で聞くとき旅かなし 近江砂人
(句意)「佐渡おけさ」は、ただでさえ哀調を帯びた歌ですが、この歌の生まれた佐渡で聞くと、寂しさがひしひしと胸に迫り、旅の悲しみが滲み出てくるのです。
寂しい句ばかり続きましたので、次に明るい旅の川柳を紹介します。
ハイビスカス髪に挿したよすでに旅 深谷 歩
(句意)あの真っ赤なハイビスカスの花を折り取って髪に挿せば、もう旅は始まっています。旅の前途にはきっと楽しさが待ち受けているでしょう。
ウキウキとした高揚感が溢れている句です。
終わりに
最後に、信州の旅で見聞してきたことを短詩仕立てにしてこの稿を終わりにしたいと思います。
命懸けでナウマン象に挑(いど)んでた
野尻湖人の末裔(まつえい)我ら (短歌)
見はるかす峡(かい)の果てまで黄金の穂(俳句)
蜂駆除の幟はためく北信濃(川柳)
【参考文献】
大内壽惠麿『信州ゆかりの日本の名歌を訪ねて』ほおずき書籍
※ステンドグラスは、「中山晋平記念館」の天井です。
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