看とりとおくりのカタリバ
昨日、鴨江アーセンターで「看とりとおくり」の集い。今年の2月には連続7回の講座を企画したが、今回は3回の集いと1回の講演会。語り合いをメインにしてみた。
結論を出そうとか、なにか知識の習得やワザの伝授が目的の集いではなく、看とりとおくりの原点から、考えてみようよというところ。語り合い自体が目的である。
カタリバと名付けたが、テーマが「看とりとおくり」だけに、楽しそうという感じでの集いではない。とくに今回は、介護と看とりのほうに比重があったので、それはじっくりお聞きするだけでも、エネルギーが要る。
こういう集いは、人数が多いと難しい。今回は6名ということで、適度に語りやすかった。
Oさんは、嫁ぎ先の親を16年間も介護し、そしていまは実の両親の介護を6年間。流動食にして食べさせるだけでも、1時間はかかるという。夜中の2時に幻視があらわれて騒ぐレビー小体型認知症のお世話など。すすんで体験を語ってくれた。いゃあ、女性にかかる負担はすごいものだ。
Tさんは、50代からの若年認知症にかかった妻の世話をされている。2年前、妻が心筋梗塞で亡くなりそうだというとき、手作りの棺桶、手作りの位牌を安置するモニュメントをつくろうとされたという話。
Sさんは、東インドの出身。遺骨は灰にして川に流すというインドの古来の、供養のあり方の話。
Iさんは、クリスチャン。看とりも済み教会での葬儀のこと。そして、クリスチャンの亡くなるときの懺悔のことなど。
老老介護、胃ろうのこと、誤嚥性肺炎、地域と葬儀のこと、お寺との関係、葬儀のお経のことなど、いろいろとディープなものが話題となった。
ぼくは前日の睡眠不足(何十年来)、低血圧(上が90下が50)と、山里から会場まで往復100キロの移動というところで、すごく疲れきっていた。けれどもなにしろ主催者なので、お話はしっかりと共感して聞いていくという、なかなかの行でもあった。
そうして、いつものTさんのサポートはありがたった。往復のクルマのなかで、人生を深くを語り合えるというのは、人生の大きな財産と思う。
帰りには、二俣の町では、屋台の引き回しに遭って交通規制で大渋滞。へとへとになって、帰宅したのであった。
きょうは妻と子は実家に帰っているので、ひさびさにマイペースでくつろいでいるというところ。やらなくちゃいけないこと、たくさんありすぎ。だけれど、まあ、人生、なるようにしかならない。なんとかなるというところに、いまある。