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目隠しはあえて取らない

 私は小さな頃からとても多趣味だ。電車に興味を持ってチラシの裏に色んな電車を書いているうちに絵を描く事が好きになっていった。そうして電車が好きになって車掌さんごっこをしているうちに言葉や地名を覚えていって字を書いたり絵本を音読するのも好きになった。車掌さんごっこみたいになりきる事が楽しくなって、音楽番組のアーティストのダンスや歌を真似するようになったら歌うのも踊るのも好きになった。そうして終いには音楽も好きになって楽器を演奏するようになってしまったもんだから、よく周りには「器用だね」と言われる事が多くなった。

 自分では好きな事を好きなようにやっているだけだから、別に器用だと思った事はないのだが、過去に一度だけ「不器用やんね」と言われたことがある。
 器用と言われ続けた自分にとって、その時は初めて言われた言葉だったので正直戸惑ったのだが、とっても信頼できる仲のいい友達の言葉だったので説明を聞いてストンと腑に落ちる部分があった。

 私は生きてくる中でどちらかというと人生の半分ほどは苦しさを感じることの方が多かった。球技ができないから体育の時には疫病神扱いされるし、男嫌いだったから学校生活のあらゆる時間が苦痛に感じていた。自分の中の性別がはっきりしなかったり、趣味が男の子らしくないという理由で徹底的な陰キャラ扱いをされたりもした。その挙句いじめられ人間不信で声が出せなくなったから意思疎通もはかれない・・・などなど挙げればきりがないのだが、とにかく学校という場所が嫌いだったのだ。

 でも、そんな嫌いな場所で過ごしてきた私を知っている彼によると、私は「目隠ししたまま生きる術を見つけている」のだと言う。
 もともと持ってしまったハンデ、つまり目隠しを普通ならみんなに足並み揃えようとしてなんとか必死に取ろうとするのに、私はいい意味でそれを諦めているのだという。

 「目隠し取るのに時間割くぐらいなら、したまま生きられるようになったるわ」という風に見えているらしい。そう言われると自分って面白いなと思えた。
 周りに無理に合わせてうまく生きられるのが「器用さ」なのだとすれば、確かに私は「なんでそんなに回りくどい事すんの?」と側から見れば驚かれる生き方をしてきたなあ、と彼の言葉を聞いて感じたのだ。

 体育は参加したくないからほとんどの時間、見学か保健室へ行くかしてその代わりレポートを大量に書いたし、思ってることはすぐ顔に出してしまっていた。少しずつ人と喋られるようになった時も「みんなにいい顔しよう」ではなく、仲良くなりたい人にはやたら話しかけるスタンスだったし、好きな事には熱中するけど興味ない事には目もくれなかった。
 
 そう言う意味で私は生きるのが「不器用」なのだと彼は言ってくれる。

 やっぱり自分だけでは自分の事ってわからない。だからこそ、周りから見た自分ってどうなのか聞くことも大事だし、面白いなと思う。
 SNSも発展して、なんだか自分ではなくて周りの人ばかり気にしている人がすごく多いなと思う現代だからこそ、自分の深いところをもっと見つめ直すべきだと思った。他人と比較して落ち込むのではなく、自分を知って強みを見つけてあげてほしい。

 とにかく、私の生き方は器用というより「不器用」だと彼の話を聞いてからはそう思う。でもそこが私の良さだとも思う。
 目隠ししてようやく走れるくらいになってきたから、次はどうしよう、自転車でも運転できるようになろうかな。

読んでくださりありがとうございます。 少しでも心にゆとりが生まれていたのなら嬉しいです。 より一層表現や創作に励んでいけたらと思っております。