過去形の多義性と三単現のSがある理由
過去形の多義性について
中・古英語での動詞変化は、目眩がするほど複雑です(『英語の歴史から考える 英文法の「なぜ」』朝尾幸次郎著p60の表参照、もしくはGoogle)。
ザックリまとめると、中・古英語は直説法(現在形、過去形)、仮定法(仮定法の中にも現在形、過去形に分類されていた)の二つに分かれており、さらにそれぞれに、単複の変化があった。それが、現代英語になって、現在形と過去形に統合、単純化されたのです。
ということは中・古英語では
「俺は橋本環奈と恋人同士」
妄想逞しく自分で書いてて笑ってしまいますがw、「恋人である」という動詞の変化だけで、現実のことなのか、時制的に過去のことなのか、それとも「妄想」のことなのか等々、事細かく判ったということです。しかし、現代英語で統合し単純化した結果、逆に多義的になり、過去の文言や仮想の文言を付け足さないと意味が一つに収束できなくなってしまったのです。
この統合によって、現在形、 過去形の違いが、『話者に関係あるか否か』に醸成されていったのだと思います。
※話者に関係あるか否かという耳慣れない言葉の意味は:「英語の言語構造についてのパラダイムシフト」(下線はリンクですので、記事中、クリックしていただければ、解説記事に飛びます)
仮定法は吸収された。もともと古・中英語で仮定法として別にあったもの(変化)が無くなって、無くなった現代英語でその仮定法を表現するのに、過去形の助動詞と完了形を使う(正確には時制のズレ)。
ということは・・・そのことによって、どんなことが起きるでしょうか?
それは、助動詞過去と過去完了に、その分意味が増えると言うことです。
そうです、この時の、増えた分の助動詞過去と完了形は、本来の意味とは違ってくると言う事です。
厄介なことに形は全く同じで区別はつきません。つかないからこそ、われわれ日本人学習者には混乱の極みになるのです。現日本語英語は、これを、過去形になると意味を増やさせる事によって、あくまで同一視していますが、もともと別物なのですから、別物とした方が混乱せず理解しやすいです。詳細は「助動詞過去のなぞ」と「過去完了形のなぞ」にて。
以下、宗宮喜代子, 糸川 健 , 野元裕樹 著『動詞の「時制」がよくわかる英文法談義』p7から引用
「話者は必然的に現実の現在時にいます。特に英語の場合、話者はその立ち位置から動かない。動く事を英文法が許さない」、同書のp26「話者と聞き手はいつも、どの時間について話しているかという時間の知識を共有する必要がある・・・・略・・・過去時制は定冠詞theの役割に似ていると言われています。たとえば会話の相手がいきなりI saw the manというと「the manって誰?」と訊きたくなる。それと同時に「sawっていつ?」とも訊きたくなるでしょう」
引用終わり。
つまり、英語の場合、過去形は多義的で時制的に過去のこと「も」意味するので、いきなり過去形がでてくると(もしくは過去形の単文だけでは)、戸惑うのでは無いのでしょうか。だから時制的に過去を示す場合にはそういう文言や、文脈が必要なのだと言うことでしょう。
三人称単数現在にSが有る理由
さらに、中・古英語では仮定法含め全ての動詞形に単複sの有無があったのですが、それらは無くなり、三単現のsだけ残った。
それは、現在形と過去形の違いが、時制も含めて、この『我々私と関与できるか否か』と言う意味合いになったからでしょう。
私は自分のことだから単複わかるし、あなたは目の前にいるからこれもわかり、単複ハッキリさせる必要はありません。過去も、私とあなたには、影響できない(関係できない)ことだから、同じく単複ハッキリさせる重要性がない。
そのような状況だから、わかるから、省略したのです。
しかし、三人称はこの場にいないから単複わからない上に、私我々に影響があるpresent formだから単複をハッキリさせる必要があるのです。だから、三単現だけ残ったのではないのでしょうか。
過去や想像、仮定で美味なものがいくらあっても、話し合っている我々には味わえないしお腹は膨れないのです。
※ ※ ※この『状況』はモノの認知において非常に重要な概念になってきます。→詳しくは「英語ではモノは風景」をご参考にして下さい。
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