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小説と自己啓発本 〜 「自己のテクノロジー」としての読書と時代の感覚
とあるSNSでこんな内容の投稿を目にした。
親に小説が欲しいといったら、「そんなの読んでどうする? 自己啓発本みたいなものを読めよ」と言われた。読書してない人なんだなと思った…
「自己啓発本よりも小説を読め」ではないことにも驚いたけど、何よりびっくりしたのは親が(平成23年生まれなので14歳の)子に対してそう言ってるところ。
自分の感覚が、地層のかなり深い部分にあることがよく分かった。
自己啓発本はいつから表舞台に?
1990年代の初頭、仕事で米国に出張した際に書店を訪れると、「セルフヘルプ」と題されたコーナーにさまざまな自己啓発本がぎっしりと陳列されている様子に驚いた。
そして「何事につけて、つねに自分にハッパををかけつづけなければならない社会って、かなり生きづらいんじゃないのか?(それにしては、アメリカの人がみんなやたらと明るそうに見えるのはナゼ?)」みたいなことを思っていた。
そのころは、自己啓発セミナー・自己改造セミナーには洗脳のイメージがあり、そのイメージがオウム真理教に結びつけられることで、なんとなく怪しげな雰囲気を醸し出していた(すくなくとも自分はそんな風に感じていた)。
そうした印象が大きく変わったのは、たぶん1990年代の末以降。
北海道拓殖銀行・山一証券倒産あたりを契機に「勝ち組・負け組」「自己責任」といった言葉が急速に広まり、それとともに(私がそれまで勝手に日陰にいたと思っていた)自己啓発本の存在感が増してきたように思う。
自分に問いを投げかける「テクノロジー」
そういう経緯を経て、2012年に出版された牧野智和「自己啓発の時代」には、「今日の日本では、自己啓発(自分自身の認識・変革・資質向上への志向)が一つのムーブメントとなっている」と書かれている。
この本がテーマとする「自己啓発メディア」とは、いわゆる書籍として出版される自己啓発本だでなく、ネット情報、資格、習い事、ボランティア、ファッション・化粧、インテリア、カウンセリング、占い、セミナーや講演会など、自己の本質をめぐるさまざまな問いに答えてくれる幅広い情報ソースを指している。
自己啓発メディアは「特定の自己をめぐる問いを創出し、人々の前に突きつけ、意識化させ、実践可能な課題へと」変える。それは「『自己の自己との関係』の調整を人々に促す知識・技法、つまり『自己のテクノロジー』」なのだ。
なぜ自己のテクノロジーが必要になるのか?
なぜ「自己のテクノロジー」が必要になるのか? 牧野はこれを、社会学者のアンソニー・ギデンスが説く「脱埋め込み化」という考え方に沿って説明している。
科学的な知識が浸透し、環境変化がますます激しくなった近代の社会では、それまでの伝統的な共同体で維持されてきた(つまり、そうした社会に埋め込まれてきた)慣習や伝統が「『本当にこれでよいのか?』と省みられるようになり、さまざまな行為の前提が揺らぎ」、新たな行動に踏み出すことがどんどんむずかしくなっていく。
これが「脱埋め込み化」
近代が後期にさしかかり、「脱埋め込み化」がどんどん進展すると、「自らの行為や関係性、またそれらを取り囲む社会制度の自明性が揺らぐことで、自分自身についての一貫した理解(自己物語)もまた揺らぐようになる」から、「何をすべきか? どう振る舞うか? 誰になるべきか?」という問いを誰もが抱くようになる。
その結果
私たちは自己をめぐる問いについて、… 一元的あるいは多元的な自己をモニタリングし、問い直し、選択肢、再構成し、表現することを通して問いに取り組み続けるという、自己の再帰的変容の『プロジェクト』を日々生きている
ということになる。
いま自分はどこから何を見ているのか?
90年代末から2000年代初頭にかけての大きな変化は社会のいろんな骨組みに対する自明性を揺らがせ、それにともなって自己物語が揺らぎ、自己をめぐる問いがつねに生まれることで、「本当にこれでよいのか?」と疑問を投げかける自分と、じっさいに日々の行動に踏み出す自分との関係を調整する「テクノロジー」が必要になってきた。
「小説より自己啓発本を読め」という発言は、おそらくその時代の険しい現実をがっつり味わった世代にとって、いまだに消え去ることのない切迫感から生まれたものなんだろう。
が、2012年(「自己啓発の時代」が出版された年!)に第二次安倍政権が成立してからは、(より悪くなってはいないという意味での)景気回復がつづいたので、それまでに投げかけてきた「自己への問い」が多少はゆるんできたはず。
だから、そうした時代にもの心ついた世代にとっては、(自分が拠って立つ基盤ががっちり安定しているわけではないから)自己啓発本もいいけど、(そこまで切羽詰まってはいないから)小説も読みたいぞ、という感じになってきた。
そんなこんなを考えていたら、ミルフィーユのように積み重なる時間の地層のなかで、自分の感覚がだいぶ深いところにあることがよく分かった。そして、目にはさやかに見えなくても、この間に大きな変化が(一度ならず)生まれ、その結果、「時代の感覚」のようなものもコロコロ変わり、しかし自分自身の感覚は、そのコロコロのある瞬間に立ちつづけていることがよく分かった。