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ストーリーとナラティブを考える:その1 システムのつながりでとらえる

前回のマガジンの記事からだいぶ時間が経ってしまいました。

これまでは、専門用語で表現されることの意味を単に「知識」として貯えるのではなく、自分自身の経験や関連するさまざまな言葉とのつながりの中で理解することが大事だという話をしてきました。


そこで、これから何回かにわたって、具体的な例を引きながら、これまでに考えてきたことの意味を検討していきたいと思います。

検討する専門用語は、「ストーリー」と「ナラティブ」

ここ数年、ビジネスやマネジメントの分野でもストーリーナラティブという言葉を耳にすることが多くなりました。

しかし、ストーリーとナラティブって、なんとなく分かったような気になっても、途中から何がどういうことなのかが曖昧になったり、「これ、ストーリーのことなのか? ナラティブのことをいっているのか?」と混乱したりすることもあります。

困ったことに物語という言葉が使われることもあります。

それってストーリーやナラティブとどう関係するのか? いま使われている物語という言葉は、ひょっとするとナラティブの意味合いで使われてる? と、さらに困惑することも。

まず今回は、そもそもストーリーとナラティブって、なんでこんなに分かりづらいのかを考えてみたいと思います。これを通じて、2つの言葉を別々に考えるのではなく、物語という全体とのつながりを念頭に置いて、「システム」の1部としてとらえることが大事なのだ、という話をしたいと思います。

ストーリーとナラティブ:その分かりづらさはどこから生まれる?

ストーリーとナラティブはどう違うのか?

これ、ミもフタもない言いかたをすれば、ストーリーとは、話のはじまりから結末に向けて、どういう順番で何が起きるかということ。

ナラティブとは、それをどう語るかということです。

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こういうと、2つの言葉が意味することはハッキリとしていて、何も分かりづらいところはないように思えます。

ところが、じっさいにこうした言葉が使われている場面をみると、「コレはコレ、アレはアレ」とキッパリと分けられないことがよくあります。

ストーリーという言葉が使われているが、そこにはナラティブの意味合いが含まれていそうとか、ナラティブを説明する箇所に、ストーリーがしっかりと関わっているとか。

どうしてこんなことになるのか?

それは、ストーリーやナラティブは物語という料理のレシピに書かれた材料のようなものだからです。

物語をつくるためには、ストーリーやナラティブという材料が必要。でも、できあがった物語の味わいや意味を語ろうとすれば、加えられた材料をバラバラに抜き出して考えるだけでは不十分です。

だから、「なぜストーリーが大事なのか」「ナラティブにどんな力があるのか」についてくわしく説明しようとすると、さまざまな材料をぜんぶ足し合わせた全体に目を向け、1つひとつの材料が、最終的に生みだされる物語とどのように関係しているのかを考えることになる。

そういうわけで、ストーリーとナラティブの分かったようで分からないところ、別々のようでいて、いろんな場面で重なり合ってくる不思議について考えるためには、物語という「料理」がどのような要素で成り立っているのか、そこでこの2つの要素がどのように足し合わされ、重ね合わせられるのかを考える必要があります。

物語は何でできている?

物語は、たとえば以下のような材料でつくられています。

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物語
は、具体的な時や場所、背景といった設定のもとで、いろんな背景や性格を持った登場人物(キャラクター)が、さまざまな行動をとったり、出来事に遭遇したり(ストーリー)することから生まれてきます。

物語のテーマは、(たとえば「喪失を乗り越えた先にある希望と再生」のように)設定やキャラクター、ストーリーなどのさまざまな要素から共通して感じられる意味合いです。

この物語を誰がどのように語るのかがナラティブです。

ナラティブにも3人称で語られる「客観的な」ナラティブと、ある自分物が1人称で自分のことを語る「主観的な」ナラティブがあります。

ここ数年、ビジネスやマネジメント、マーケティングでよく耳にするようになったナラティブという言葉は、語り手が1人称で自分のことを語るときの語り口や内容という意味合いで使われています。

物語の構成要素を考えるときに大事なのは、物語は、設定・登場人物・ストーリーといった客観的な要素と、テーマやナラティブといった主観的な要素を組み合わせた形でできあがっているということです。

客観的な要素と主観的な要素のバランスが物語の味わいや意味を決めるんですね。

ナラティブは何を語っている?

ナラティブは物語の主観的な要素だというと、「いや、違うのでは?」と思う人がいるかもしれません。

さまざまな要素から共通して(主観的に)感じられるテーマとは違って、ナラティブは、誰が・何を・どのような(客観的な)言葉で語るかということなので、客観的な要素のようにも感じられます。

たしかにナラティブは、最終的には客観的な言葉によってあらわされます。しかしナラティブがあらわすものはそれだけにとどまりません。

たとえば、「なかなかハッキリとした言葉にならなかった思いが、ある出来事をきっかけにして、このような言葉として語られるまでの心情の変化」とか、「この状況に対して、この言葉が使われる背景に存在する強い思い」とか。

ナラティブは、客観的な言葉を手がかりにして読み取ることができる主観的な状態や状況もあらわしているんですね。

部分を足せば全体になる?

そういうわけで、さまざまな材料でつくられた物語という「料理」の中では、「どういう順番で何が起きるか」という客観的なストーリーの要素と、「それをどう語るか」という主観的なナラティブの要素は、まったく別の2つの「要素」ではなく、つねに深く結びついている物語の2つの「側面」だということになります。

ストーリーとナラティブの分かりづらさはここから生まれてくるですね。

ストーリーという言葉が使われていても、「ある状況で何かが起きたときの登場人物の心情の変化」に関連するところでは、その登場人物の主観のあらわれとしての語り口や語りの内容が深くかかわってくる。

また、ある場面のナラティブで表現される登場人物の感情を深く理解するためには、物語全体の設定やキャラクターの細かい肉づけ、そしてストーリーの流れと関連づけて考えなければならない。

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このように、ストーリーとナラティブという2つの要素(およびそれ以外の物語の要素)の間には、「コレはコレ、アレはアレ」というハッキリとした境界線を引くことはできないし、つねに他の要素も足し合わせた物語の全体との関連でとらえないと、それぞれの要素の働きは明らかにならない。

ストーリーとナラティブの分かりづらさは、つねに物語という全体と結びつき、たがいに関連しあっている要素を、別々のものとしてとらえようとするところから生まれてくるわけです。

なぜ分かりづらい言葉が必要なのか?

ここで大事なのは、なぜこうした分かりづらい言葉がビジネスやマネジメントの分野でさかんに使われるようになったかを理解することです。

ストーリーにしても、ナラティブにしても、もともとこうした言葉が使われていた文芸評論や精神科医療の分野では、それほど分かりづらいものではありませんでした。

ビジネスやマネジメント分野で使われる2つの言葉の分かりづらさは、ビジネスやマネジメントが置かれた状況やそこで必要となる視点や行動を、他の分野の言葉を借りて表現しなければならなくなったことを示しています。


「知識と実践のPDCAサイクルをまわして…」の記事では、別々の場所で、別々の人たちが、同じ話をしている可能性について触れていました。

それまでは切り分けられた部分と全体をバラバラに考えてよかった状況が大きく変化していることを背景に、ストーリーとナラティブという言葉が使われるようになってきた。

だとすれば、部分と全体の新たな「つながり」を見いだす必要性について、別々の場所で、別々の人たちが、同じ話をしている可能性はないでしょうか?

システム思考:全体を考えることではじめて理解できるもの

「コレはコレ、アレはアレ」と別々のものとして理解するのではなく、つねに足しあわされた全体との関連において状況をとらえることが大事。


この視点は、「学習する組織」でピーター・センゲが説くシステム思考に似ているように思えます。

雲が立ちこめ、空が暗くなり、木の葉が風に巻き上げられると、もうすぐ雨が降るとわかる。 また、豪雨で流れていく水が何キロメートルも離れたところの地下水に流れ込むことも、明日には空が晴れることも、私たちは知っている。

こういった出来事はすべて、時間的にも地理的にも離れているが、すべて同一のパターンの中でつながっている。 

それぞれがほかのものに影響—たいていは目に見えない影響—を与えている。豪雨のシステムは、その全体を考えることで初めて理解できるのであり、どこであろうとパターンの一部分を見ることでは理解できない


システム思考で大事なことは、「相互に関連する行動が織り成す、目に見えない構造でつながっている」全体をとらえること。

他と切り離された部分のスナップショット」に焦点を当てるだけでは、全体に働いている見えない影響の構造を明らかにすることはできない。

ストーリーやナラティブという分かりづらい言葉が使われることになった背景には、センゲが語る環境の大きな変化、つまり「まるで何かがそれ自身を粉々にし、腐らせ、疲れ果てさせている一方で、ほかの何かが、まだぼんやりとではあるが、瓦礫の中から生まれつつある」ような状況の変化があるんですね。

「より大きな全体とつながっている感覚」を取りもどす

しかし、こうした視点は、これまでの「学習」からはなかなか生まれてこないとセンゲは語っています。

私たちは幼いことから、問題を細かく分けよ世界を断片化せよと教えられる。

分けることで複雑な課題や対象が扱いやすくなるのは明らかだが、私たちは目に見えない莫大な代償を払うことになる。

自分の行動の結果がどうなっているかが見えなくなるし、本来私たちに備わっている、より大きな全体とつながっている感覚が失われてしまうのだ。


そういうわけで、ビジネスやマネジメント分野で使われるストーリーとナラティブについて考えていくにあたっても、ストーリーとは何か? ナラティブとは何か? について、「細かく分け」、「断片化」して理解するだけでは不十分です。

こうした言葉が登場する背景にある、これまでのような「部分のスナップショット」が通用しなくなった状況とはどのようなものなのか? たがいに関連する部分がつながり合い、「目に見えない構造」を生まれている状況とはどのようなものか? といった視点から考えていく必要がありそうです。

経営戦略にはストーリーが必要だ
リーダーが語るストーリーがメンバーのモチベーションを高める
これからのマーケティングはストーリーではなくナラティブが重要だ

こうした言葉の意味を深く知るためには、ストーリーやナラティブといった言葉で示されている部分がどうつながり合って、物語の全体という「システム」をつくり上げているのかという視点でとらえる必要があるんですね。


今回は、ストーリーとナラティブの分かりづらさについて考えることで、この2つの要素をはじめとするさまざまな構成要素がたがいに関連しあう、「目に見えない構造」としてのシステム(=物語)を念頭に置いて考えることが大事だということが分かりました。

次回は、じっさいの物語を例にして、ストーリーとナラティブがどのようにシステムとして結びついているのかを考えます。そして、ビジネスやマネジメント分野で使われる「ストーリー」が何を意味しているのかについての理解を深めていきたいと思います。

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