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大河ドラマ「べらぼう」は陰翳を礼賛するだけじゃないのがいい

NHKの大河ドラマ「べらぼう」がおもしろい。

はじめて平安貴族が主人公となった「光る君へ」の後が江戸の町人物。さらに舞台が吉原なんだから本当に攻めている。これまで2回の放送でも、花魁に化けた狐がスマホで吉原を案内したり、想定を大きく超える過激なシーンが出てきたり、小芝風花の演技がいい、安田顕の平賀源内がいいと、いろんないい評判が耳に(目に?)入ってくる。

が、個人的にいちばん「おおっ!」と思ったのは、ドラマに描かれる夜の吉原がとにかく薄暗いところだった。

ロウソクが照らし出す沼のような艶

なにしろ江戸時代なのだから、いまのような照明のない室内は薄暗くて当然。なんだけど、見慣れた時代劇の薄暗さと比べても、(言葉がヘンだけど)はっきりくっきり薄暗いところがとても新鮮。

花魁といえば絢爛豪華な衣装を着てるイメージがあるけど、しっかり薄暗いなかで「それがどんな風に見えるかをちゃんと見せよう」という心意気が感じられる。

そんな絵づくりを見ているうちに、谷崎潤一郎陰翳礼賛」の一節を思い出した。

あえて電燈ではなく古風な燭台を使う有名な料理屋が京都にあったが、「蝋燭では暗すぎる」という客が増え、いつからか行燈型の電燈を使うようになった。しかし谷崎潤一郎はその薄暗さを楽しみに訪れたので、これまで通りに燭台の灯りに変えてもらうことに。

谷崎いわく、「日本の漆器の美しさは、そう云うぼんやりした薄明りの中に置いてこそ、始めてほんとうに発揮される」のだ。

四畳半ぐらいの小じんまりした茶席であって、床柱や天井なども黒光りに光っているから、行燈式の電燈でも、もちろん暗い感じがする。

が、それを一層暗い燭台に改めて、その穂のゆらゆらとまたたく蔭にある膳や椀を視詰めていると、それらの塗り物の沼のような深さと厚みとを持ったつやが、まったく今までとは違った魅力を帯び出して来るのを発見する。

そしてわれわれの祖先がうるしと云う塗料を見出し、それを塗った器物の色沢に愛着を覚えたことの偶然でないのを知るのである。

薄暗さに浮かびあがる吉原の夜の綾

漆器に施された豪華絢爛な装飾も、最初からそうした薄暗さのなかに浮かび上がる計算のうえに成り立っている。だから、陽の光や明るい電燈のもとでがっつり見るべきものではないのだ。

派手な蒔絵などを施したピカピカ光る蝋塗りの手箱とか、文台とか、棚とかを見ると、いかにもケバケバしくて落ち着きがなく、俗悪にさえ思えることがあるけれども、もしそれらの器物を取り囲む空白を真っ黒な闇で塗り潰し、太陽や電燈の光線に代えるに一点の燈明か蝋燭のあかりにしてみたまえ、たちまちそのケバケバしいものが底深く沈んで、渋い、重々しいものになるであろう。

いにしえの工藝家がそれらの器に漆を塗り、蒔絵を画く時は、必ずそう云う暗い部屋を頭に置き、乏しい光りの中における効果を狙ったのに違いなく、金色を贅沢に使ったりしたのも、それが闇に浮かび出る工合や、燈火を反射する加減を考慮したものと察せられる。

つまり金蒔絵は明るい所で一度にぱっとその全体を見るものではなく、暗い所でいろいろの部分がときどき少しずつ底光りするのを見るように出来ているのであって、豪華絢爛な模様の大半を闇に隠してしまっているのが、云い知れぬ餘情を催すのである。

そして、あのピカピカ光る肌のつやも、暗い所に置いてみると、それがともし火の穂のゆらめきを映し、静かな部屋にもおりおり風のおとずれのあることを教えて、そぞろに人を瞑想に誘い込む。

もしあの陰鬱な室内に漆器と云うものがなかったなら、蝋燭や燈明の醸し出す怪しい光りの夢の世界が、その灯のはためきが打っている夜の脈搏が、どんなに魅力を減殺されることであろう。

まことにそれは、畳の上に幾すじもの小川が流れ、池水が湛えられている如く、一つの灯影を此処彼処に捉えて、細く、かそけく、ちらちらと伝えながら、夜そのものに蒔絵をしたような綾を織り出す。

「べらぼう」の薄暗い吉原を観ていると、そんな具合に「灯のはためきが打っている夜の脈搏」が「夜そのものに蒔絵をしたような綾」を織りなすところをしっかりと「見える化」しようという意思が感じられる。

「陰翳の謎」の表と裏(の後に一周まわった表)

とはいえ、そうした陰翳を礼賛するだけで終わらないところが「べらぼう」のいいところ。

「明るい所で一度にぱっとその全体を」見てしまうと、そこにはこれまで目に入らなかったものが姿をあらわすことになる。そういうところもしっかりと(残酷に)描いているのがすごい。

それは、谷崎潤一郎が語る(西洋人には理解できないと述べられている)「陰翳の謎」のカラクリ(とそのためにどんな犠牲が払われているか)をすっかり明らかにするようなものだから。

われわれわれは、それでなくても太陽の光線の這入りにくい座敷の外側へ、土庇を出したり縁側を附けたりして一層日光を遠のける。そして室内へは、庭からの反射が障子を透してほの明るく忍び込むようにする。

われわれの座敷の美の要素は、この間接の鈍い光線に外ならない。われわれは、この力のない、わびしい、果敢はかない光線が、しんみり落ち着いて座敷の壁へ沁み込むように、わざと調子の弱い色の砂壁を塗る。土蔵とか、厨とか、廊下のようなところへ塗るには照りをつけるが、座敷の壁はほとんど砂壁で、めったに光らせない。

もし光らせたら、その乏しい光線の、柔かい弱い味が消える。われ等は何処までも、見るからにおぼつかなげな外光が、黄昏色の壁の面に取り着いて辛くも餘命を保っている、あの繊細な明るさを楽しむ。我等に取ってはこの壁の上の明るさ或はほのぐらさが何物の装飾にも優るのであり、しみじみと見飽きがしないのである。

これまでに目に入らなかったものを映し出すという意味では、第2話「吉原細見『嗚呼御江戸』」に描かれた平賀源内瀬川菊之丞とのエピソードも、それまで時代劇にはあまり表だってあらわれてこなかった側をしっかりと見せている。

こうした同性愛のテーマは、このところのドラマではよく取り上げられるようになっていて、たとえば「どうする家康」のときには、家康最初の側室、お葉が同性愛者で、侍女の美代を愛していたというエピソードが描かれた。

このときは賛否両論が巻き起こったけど、さらにきわどい内容になりそうな「べらぼう」第2話に対しては(小芝風花と安田顕の名演もあって)「名場面」との声が数多く寄せられているのは、単に陰翳を礼賛するだけでなく、その裏側もしっかり描いたうえで、でもやっぱり元にもどって陰翳を礼賛するという、一筋縄ではいかない脚本の妙なんだろうなと思う。

(もちろん、ここからさらに裏側にひっくり返らないともかぎらない。そういう意味で、森下佳子によるこれからの脚本が楽しみでありつつ、心配、というか怖い、という声が上がるのもよく分かる気がする)


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