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中山みき研究ノート

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立教150年(1987年)、八島先生の名前で立風書房から刊行された「中山みき研究ノート」の全文を、順次公開していきます。
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2022年4月の記事一覧

中山みき研究ノート2-1 生いたち

中山みき研究ノート2-1 生いたち

第2章 道あけ生いたち

『稿本教祖伝』では、第一章が「月日の社」となっていますが、 立教の場面を理解するには、それ以前の状況を掌握して置く必要があるので、ここでは中山みきの誕生の場面から考えてみましょう。

昔は、お百姓さんはあまり記録を付けませんでした。お百姓さんは春には種蒔き、秋には穫り入れということで、サイクルが一年単位で長いから、その必要がなかったのです。林業では、一度苗を植えると親子三

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中山みき研究ノート2-2 五重相伝

中山みき研究ノート2-2 五重相伝

五重相伝

16歳で両親が、安心して所帯を任せたということですが、これは大変な誉め言葉です。 16歳で関東で言う財布持ちになったのです。これは一つには姑が叔母であるという事もあるでしょうが、人柄の良さを示す事柄であると思われます。

五重相伝が大きく扱われていますが、当時は五重相伝自体が全く形式化しており、信仰の熱心さとは関係なく、ある程度の経済力があれば一つの身分上のアクセサリーとして受けられた

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中山みき研究ノート2-3 転輪王

中山みき研究ノート2-3 転輪王

転輪王

足達照之丞のことについて願を掛けたとされる稗田の大師、武蔵の大師は、真言宗の参り場所です。 中山家の宗派は浄土宗でしたが、浄土宗では「阿弥陀仏に助けたまえと手をあわせ、口に念仏する素直な心」を深心と言い、信者としての大切な条件になっているのです。他の神仏に願うなら、もはや浄土宗の信者ではありません。 ひたすら阿弥陀仏に帰依するのです。

教祖はこの時期から後、41歳でこの道を始められる頃

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中山みき研究ノート2-4 立教の時と所と人

中山みき研究ノート2-4 立教の時と所と人

立教の時と所と人

この矛盾が一時に噴き出したのが天保9年10月23日の夜です。

みきは腰の痛み、秀司は足の痛み、善兵衛も目の煩いというように伝わっていますが、家族が病気になって中山家の動きは全く停止してしまったことでしょう。

おさしづでは「夜に出て昼におさまりた理」(明治29年2月29日)といわれています。「昼におさまった」というのは、明治20年陰暦正月26日午後2時ごろ御身を隠されたことを

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中山みき研究ノート2-5 いつでも、どこでも、誰でも

中山みき研究ノート2-5 いつでも、どこでも、誰でも

いつでも、どこでも、誰でも

もう一度整理してみましょう。まず「人」については、おふでさきに、

と記されていますが、「みないりこむで」とは誰にでも、ということです。 また、「めいめいのやしろ」あるいは「やしろとなるをふたりとも」と、複数である事がはっきり示されています。

また、「場所」についても、みかぐらうたの九下り目では、

と、神の心に生まれ変わるのが本当のおつとめであって、たとえ最初にお

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中山みき研究ノート2-6 元の神・実の神

中山みき研究ノート2-6 元の神・実の神

元の神・実の神

神の社となった後、教祖は、たすけて下さいと願うのではなく、自分がたすける神の心になって生きなければ世直しは出来ないのだという思いを、まず、善兵衛に言い、広く宣言しましたが、それを聞いた人が理解してこの心になってくれないことには、世の中は変わってはいきません。立教以後の教祖は、いかに分かりやすく皆にこれを伝えるか、という思案に明け暮れた毎日を送りました。

今までの人が気が付かなか

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中山みき研究ノート2-7 貧に落ちきれ

中山みき研究ノート2-7 貧に落ちきれ

貧に落ちきれこういったことから『稿本教祖伝』第三章、「みちすがら」を検討し直してみましょう。 最初に出てくるのは、

ということですが、「貧に落ち切れ」とは、みかぐらうたにもおふでさきにも書いていないし、本席の膨大なおさしづにも出ていません。教祖が言われたとはとても思えません。 

また、嫁入りの時の荷物を始め、いろんな物を施したというのですが、教祖が嫁入りの時に持ってきた蒲団は、おはるが櫟本の梶

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中山みき研究ノート2-8 神名流し

中山みき研究ノート2-8 神名流し

神名流しこかんの大阪布教については、大きな問題があり、当時の中山家の情勢を知るのには最も適した事柄だと思います。 それで、実際の姿と『稿本教祖伝』に書いてあることの違いを、こかんを軸に考えてみましょう。

とありますが、これは明治31年になってから、書き加えられたものであります。天理王命、という神名が初めて出てきたのは明治18年なのです。まして、天理王命、または天理大神というのは、天皇家の先祖を十

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中山みき研究ノート2-9 をびやほふそ

中山みき研究ノート2-9 をびやほふそ

をびやほふそ文字で残っている最初の資料は、慶応3年に教祖が自ら作られたみかぐらうたであり、これ以前の教理を最も良くまとめたものであります。従って、まず、これに基づいて教理の理解を進めてみましょう。

嘉永7年、三女おはるがお産をする頃から、をびやゆるしが出されています。今までにないたすけ場所であることを、しっかりと理解させるために、をびやゆるしとほふそゆるし、ということを教え始めたのです。昔の先生

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中山みき研究ノート2-10 病の元は心から

中山みき研究ノート2-10 病の元は心から

病の元は心から さて、をびやゆるしがほふそゆるしと共に大切な教理の元になっているので、まず当時の、「ほふそ」の状況から見ていきましょう。

ほふそとは今でいう天然痘のことです。天然痘は、現在ではこの地球上から絶滅した、と言われています。まさに、教祖が「ほふそせんよにたしかうけやう」(注=おふでさき〈十二 95〉)と、書かれたことが実現したのです。

これが、教祖の教えによって、お道の人が努力して天

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中山みき研究ノート2-11 お産のしきたり

中山みき研究ノート2-11 お産のしきたり

お産のしきたりをびやについては、「いっさい、つねのとおり」というのが教祖のお話です。『稿本教祖伝』では、

とありますが、この三度息をかけ、同じく三度撫でて置かれた、というのは、おはるにされたことかどうかは分かりません。後に、こういう事を見て語り伝えた人がいるので、多分、最初もそうであったろうと推定して書かれたものです。

嘉永7年にはおはるがお屋敷に帰っていますが、『稿本教祖伝』の記述だと嘉永6

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中山みき研究ノート2-12 迷信からの解放

中山みき研究ノート2-12 迷信からの解放

迷信からの解放教祖は、「をびやいっさいつねのとおり。どくいみいらず、もたれものいらず」と、全て平生通りであることを教えられました。これが、をびやゆるしなのです。

教祖のをびやゆるしやほふそゆるしは、人類には安産を許してあるし健康も許してある、ということですが、心得違い・通り違いによっては病気や怪我、災厄が起こってくるし、金儲けに走り過ぎれば川や海の汚れから、公害病なども起こってくるのです。神が病

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中山みき研究ノート2-13 女松男松のへだてなし

中山みき研究ノート2-13 女松男松のへだてなし

女松男松のへだてなし当時、武家の意識が浸透して来るに従って、庶民のあいだでも、女性は子供を産む器械という位にしか思われていませんでした。 武士というのは殺しの専門家だから、戦闘員である男にだけ存在価値が認められ、禄が与えられていました。非戦闘員である女性は蔑視されていたのです。さらに、当時の知識程度が、どうしても男女差別を当然のものにしてしまっていたのです。

その一つは、男は子種を持ち、女は苗代

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中山みき研究ノート2-14 文久年間のおたすけ

中山みき研究ノート2-14 文久年間のおたすけ

文久年間のおたすけ文久年間になると、教えを聞き分けた人がだんだん増えて、近在に広まり、後に講元として信仰者達の中心になった人達も何人か出て来ています。

当時、道路づたいに北へ行くと、豊田村、櫟本村、櫟枝村、伊豆七条村(治道)と続いていました。 庄屋敷村を西へ行けば、二階堂、 平端を通り、安堵村から法隆寺へ出ます。教祖の教えはこの道路に沿って広がって行ったと思われますが、そのきっかけとなったのが安

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