中山みき研究ノート2-1 生いたち
第2章 道あけ
生いたち
『稿本教祖伝』では、第一章が「月日の社」となっていますが、 立教の場面を理解するには、それ以前の状況を掌握して置く必要があるので、ここでは中山みきの誕生の場面から考えてみましょう。
昔は、お百姓さんはあまり記録を付けませんでした。お百姓さんは春には種蒔き、秋には穫り入れということで、サイクルが一年単位で長いから、その必要がなかったのです。林業では、一度苗を植えると親子三代、百年もかかってようやく出荷できる用材が出来るということで、これまた非常に長いサイクルです。
武家は、旗本なら国家公務員、藩士なら地方公務員のようなもので、記録することが勤めですから、武士階級の人が教祖の側にいれば、記録は丹念にとられたことでしょう。後に、増野正兵衛が教祖のお屋敷に来るようになってからは細かく記録がとられています。また、商人は、金銭出納簿が細かい日記の役割をしていました。
当時のお百姓さんは年貢の割り当てが読めればいい方で、指導的な人がようやく字が読め、ほとんどの人は読めない書けないという程度でした。 しかし、教祖のお話を聞いて感動し、自分の生き方を変えようと心定めした人達が教祖のお側に寄って来るようになってからは、一生懸命言い残したり書き残したりしています。だが、教祖が月日の社になる41歳以前のことは、ほとんど伝わっていないというのが実情なのです。
『稿本教祖伝』は資料もなく、事実関係がよく分からない状況の中で、あまり差し障りなく纏めようとして作られたもののようです。尊敬する人の伝記ですから、それなりにうまく誉め言葉を並べて編集したものと思われます。その冒頭の「誕生」のところに、
とあります。しかし、戸籍では前川半七の長女として4月4日に生まれたということになっています。 どちらが本当なのか、分かりません。
ともありますが、この「みき」という名前さえも、はっきりしません。 前川半七が朝、 大和神社にお参りして、帰り道に御神酒徳利を見て、帰ったら子供が生まれていたので「みき」と名付けた、ということが村松梢風の『大和の神楽歌』という本に出ていますが、これは小説家のフィクションであり、前川家の記録には「みき」という字は一切見当たりません。三昧田では「るい」と呼ばれていたらしい、ということだけが前川家や古い方々の証言(注= 中山正善『続ひとことはなし』〈道友社〉6頁。『復元』2号36頁。『復元』 29号36頁。 櫟6)に出てきます。
前川家は教祖が生まれた頃は藩から公式に「前川」の名字を許されていたわけではなかったようです。 お寺の過去帳にも、「半七」という名は代々使われていますが「前川」の字は見あたりません。
また、『天理市史』によると、前川家は文政10年10月に、一代限りの無足人に任命されています。秀司が悪戯っ子になる頃、里の親が任命された(注= 高野友治『御存命の頃(上)』〈道友社〉1971年刊10頁。『復元』29号14~20頁。櫟5)のです。
無足人とは、領主が領民の中の有力者に一目置いて、禄は与えないが武士扱いをして、村人を治めさせたものです。 足すこと無き人という意味で、無給ではあるが名誉を与えることによって、新たにやって来た領主と繋がりを持たせようという政策によるものです。 藤堂藩の無足人で有名なのは百地三太夫とか荒木又右衛門とかで、代々その土地の有力者でありました。
前川家の場合、代々有力な家柄というわけではなかったようです。 前川家の墓は中山村念仏寺にあり、三昧田の人達の墓がある寺にはないことからみて、いつの時代にか、三昧田の村に移住してきた人らしい、という事が分かっています。
名字帯刀とは、小刀を一本差すことではなく、二本差して武士としてどんな所にも出席出来るという身分をいいますが、実際には半七は二本差したことはありません。
代々の無足人は一朝事ある時には、具足と槍を持って藩の戦いに出ていかなければならないのです。鳥羽伏見の戦いの時には、この丹波市からも、昔からの無足人は鉄砲隊として鎧を持って出陣していますが、前川家が出陣したという記録は見あたりません。
この時代の無足人は、幕末に藩が財政に困って、藩になにがしかの寄付をした者に称号として与えたものだったようです。したがって、無足人、前川半七正信の長女として生まれた、というよりも半七の長女として生まれ、13歳の時お嫁に行き、しばらくしてから里の父親が無足人という名誉ある称号を頂いた、と理解した方がいいと思います。また、
とありますが、「後に教祖になった方は前川ではるいと呼ばれていたらしい」と、名前さえはっきりしない子供の行状があまりに細かく伝えられているのは、逆に拠り所が確かではないということだと思われます。尊敬したり愛情をもっている人の子供の頃を語ると、五つ神童、十で鬼才、そして今は只の人、などということが多いものですが、この程度では別段誉めあげて綺麗ごとにしたという程ではないと思います。教育については、
とあります。近村の寺小屋というのですが、これもよく分かりません。このことを伝える人も実はおりません。しかし、おふでさきをきっちりと書き残しておられることから、ある程度は教育の基礎を学ばれ、身に付けられていたと推定されます。
教祖の書かれたおふでさきは、言葉の数が非常に少ないのです。神、道、立腹とか残念と言葉を一つ一つ分けても、その数は百幾つしかありません。当時、寺小屋では「子曰く」と、論語を読むこともやっていましたから、寺小屋に二年間も行けば、もっと言葉の数が多くなっていたものと思われ ます。
「オ」という字に「お」と「を」という二つの文字がありますが、教祖は全て「を」を使っていま す。「お」はおふでさきに一度も出て来ません。 それくらい、言葉・文字の数が片寄っています。そこから見ても、寺小屋で普通の文法をきっちりと習ってのことではないと思われるのです。 たぶん、 親に手解きを受けた程度の独学と思われますが、ここの所ははっきりとは分からないということにしておきましょう。
これは、13歳で嫁にいかれるまでに裁縫も一人前になった、という話から、こう書いたものでしょう。
教祖の縫った物には非常に優れた細工物があります。 67歳の時、安堵村の飯田岩次郎に与えられた犬などは、ほのぼのとした教祖の人柄がそのまま表われているようで、病んでいる6歳の子供に与えられる愛情がそのままに感じられる見事な出来栄えです。 その犬にはよだれかけがありますが、それは上の布を切り抜き、下の布の色を出して模様にした丹念な物です。また、80歳前後で作られた細工物を増井りんが頂いていますが、それを見ても、教祖が針を持つことを苦にされず、嫁にくる前から上手であったことがうかがわれます。
浄土和讃についても、当時、寺請け制度の中にあった農村では、お寺が唯一の社交場みたいなもので、その子供が浄土和讃を覚えることなどは、いわば当然のことではなかったでしょうか。
後に世界史を変えるであろうほどの(未だ本当の教祖の教えが伝わっていないので、まだまだ小さな教団の教祖でしかないが、将来、教祖の教えが正しく伝えられたら)、素晴らしく立派な宗教家であり、思想家としても極めて大きな存在です。 子供の時には出来そこないであったなどとは誰も考えません。したがって、相当誉めても誉め過ぎではないと、はっきり分からないことでも書いたのではないかと思われます。
二代真柱の考証によれば、 「中山」という名字は、藩の記録にないことから、公式に与えられたものではなかったものの(注= 中山正善 『60年の道草』〈道友社〉1977年刊163~164頁。『大和』〈中外書房〉1960年刊初収。櫟2)のようです。強いて捜せば、石上神宮の灯篭の一つに、それを寄進した人として「庄屋敷村 中山善兵衛」の名が台石に彫られています。 それが、中山という文字が出ている多分唯一のものではないかと思われます。公式には無いのに、まわりの人から「中山善右衛門、中山善兵衛」と言われていた原因を、本部の資料の中から捜してみると、天理から奈良に向かって行くと森本という所がありますが、その森本の昔の番地で〇〇番地(現在は森本△△△番地) に、 中山善右衛門という方が住んで居られます。 天理市の電話帳にも、★★★★と出ています。 この家が代々、森本の庄屋でありました。
この家から、教祖の時代より何代か前のある時期に、庄屋敷村の善兵衛の所に養子が行っています。 養子は他人とみるのが日本の地方の古い風習であり、大和は特にそれが強かったようです。 血縁の結束が強く、「あれは身の者《もん》やない」というと、ひどい時は敵のように扱われてしまいます。 それで、養子先でばかにされまいとして、「庄屋敷の善兵衛の所は名字がないが、私の生まれた所は中山だぞ」と言い、この人の子孫も、「私は中山の子孫や」と言うようになったものだと思われます。 森本の中山は現在、天元分教会の信者になっていて、この事情は本部で確認されています。
中山家について、研究者が抱く疑問は、「庄屋までやった名家ならば、この近在に親戚が多数居てしかるべきではないか。いくら天理教になって親戚が離れたとしても、全部が身代限りをして消えてしまったわけでもあるまいし」ということです。
中山家の親戚としては、森本の庄屋があるのです。しかし、後に神道管長として勅任官待遇の地位を得るという時に、庄屋敷の中山は一族の中心人物であって欲しいという思いがあったのでしょう。 こちらが本家で上位なら、あそこもここも親戚だと言ったのでしょうが、森本の庄屋の名を借りてい るといった状況なので、天理教になったために離れてしまって付き合いはない、と言うことにしたのではないかと思われます。
教祖は嫁に行くとき、尼になりたいと言われたといいますが、当時の農民の生活は一般に希望の持てるものではなく、女性は生涯「三界に家なし」と言われて、鎖に繋がれた牛馬のように労働力として期待される存在でありました。その中での結婚は現在のようにバラ色のものではなかったようです。 穢土を嫌い浄土を望むというのが社会の情勢でありましたから、このような言葉があっても無理からぬことと思われます。
それに対して、「そんなことをしたら女としての業が果てないよ」という説得がごく当たり前に行なわれたことでしょう。また、結婚を承知された条件についても、詳しく伝えられているわけではありません。
中山家の当時の状況をみてみましょう。まず、中山家の墓は善福寺にありましたが、墓はそれが作られた頃の、その家の社会的地位を冷凍保存しているようなものです。善福寺は庄屋敷村の人達が有力な檀家でありました。本堂に向かって右側に庫裏があり、山門の右に鐘撞堂があって、本堂と鐘撞堂との間に村人達の墓が並んでいます。しかし、この一角には中山家の墓はありません。それは、昔からの村人達の場所からはずれた「崖っ縁」にあったのです。善福寺は、「水平社60年」というテレビの特集番組で、差別的な墓地の扱いが今だに残っているとして紹介された寺であり、その「崖っ縁」というのが、いわゆる差別の崖なのです。この崖の下に差別された人の墓があり、上には他の村の人達の墓がありますが、崖に面して、その上にあるのが中山家の墓なのです。
墓の大きさは、足立家、北田家といった庄屋敷村の有力者の墓の半分以下であり、どの墓石にも「中山」という字は見当たりません。石に彫ってある文字も浅く、判読しにくいが、本部が丹念に読み取って、その絵を書いたものが残っています(注=『復元』2号60~69頁。櫟20)。 ところが、4年前(昭和58年)の1月の調査では、昔の中山家の墓はきれいに取り片づけられて、なくなっていました。今は見ることは出来ません。
また、天理本通りの北村時計店(屋号は「かせや」)に昔の印が一つ残っています。 縦3寸、 横7分 という細長い判で、そこには、「布留谷庄屋敷 かせや平治郎 質屋善右衛門」という文字があり、今でも保存されています(注=『復元』2号68頁。 櫟21)。
こういう古い資料を辿ると、中山家は昔から生え抜きの庄屋敷のお百姓ではなく、ある時代に他所から移住して来たもので、年貢を納めるのに困った人達に田畑を質に、お金を融通しているうち、返済できない人達の田畑が少しずつ中山家に入ってきて、この時代には3町歩余りの農地を持つようになったものと思われます。
大和は結婚の時の家柄・格式にとてもうるさい土地柄です。 前川家と中山家は共に、5荷の荷で縁組をする格式の家でありました。 そういう所から、5荷の荷を持って振り袖姿で嫁に入られた、ということになっていると思います。 大和の様子を詳しく調べると、『巻向村史』には当時、大豆越村に4町歩以上の百姓がなかったという統計が出ています。大豆越村の山中忠七の家は7荷の荷を以って縁組をする家柄でしたが、田地は4町歩以下ということです。 中山家の記録でも3町歩余りが一番大きい時だったようです(注=『復元』30号239頁。 櫟14)。
13歳の結婚は早過ぎるのではないか、とも思えますが、今と違い、教育がそう長く行なわれなかった時代は大体結婚は早かったようです。あまり知られていませんが、孫のたまえ(初代真柱夫人)も13歳で結婚しているので、そう早かったという程でもありません。また、教祖が13歳で足入れ、 15歳で本当の結婚をされたという話も、別に伝わっていますが、よくは分かりません。
その後、嫁がれた教祖は両親によく仕えた、といいますが、これも当たり前のことで、姑の髭を剃ったところ器用であった、というようなことは別段どうということはありません。
どういう意味でこの文が作られたのか、よく分かりません。作者は何を言いたかったのでしょう。これをそのままに受け取ると、 中山家も前川家も共に、結婚したばかりのご新造さんの衣服を用意していなかった、ということにもなってしまいます。
これは、当時のお嫁さんの状況をそのままに伝えたものです。教祖は体は達者でなかったといっても、弱くはなかったと思われます。大病をしたとは伝えられておりません。 後に、「私は若い頃はそんなに活発ではなかったけれども、70過ぎてから皆におてふりを教えて、立って踊るようになりました」という言葉などから、昔はあまり丈夫でなかったという表現になったのでしょう。
綿木引きでは人の倍も引いたと伝えられています(注=『復元』18号6頁。櫟55)が、綿木引きでも教祖は、今でいえば軍手をするように手拭いを巻いて、綿摘みが終わった綿の木を抜き取ったのでしょう。当時としては普通より良く働いた聡明な嫁さんだったということです。
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