中山みき研究ノート2-2 五重相伝
五重相伝
16歳で両親が、安心して所帯を任せたということですが、これは大変な誉め言葉です。 16歳で関東で言う財布持ちになったのです。これは一つには姑が叔母であるという事もあるでしょうが、人柄の良さを示す事柄であると思われます。
五重相伝が大きく扱われていますが、当時は五重相伝自体が全く形式化しており、信仰の熱心さとは関係なく、ある程度の経済力があれば一つの身分上のアクセサリーとして受けられたものであったようです。 前川家の過去帳を調べても、ほとんど五代にわたって夫婦共にこれを受けています。
五重相伝を受けた動機について、善福寺の過去帳によれば、8月10日に善右衛門の孫が亡くなり、 「泡水童子」という戒名を受けたという記録が残っています(注=「復元』2号61頁。櫟20)。もし、他所で生ませた子なら、そちらの方に記録が残るから、善右衛門の孫という記録からみて、これはみきが生んだ子供です。この戒名からすると男子で、生まれていくらも経たずに死んだものと思われます。
これが8月10日ということになっていますから、(「文化13年春」は)おなかの大きい時であったか、あるいは、すでに子持ちということになります。芹沢光治良の『教祖様』では、8月10日に子供を亡くしたから、その後、熱心に念仏を唱えて五重相伝を受けた、となっていますが、これでは五重相伝は文化13年秋以降ということになってしまいます。 隠された一人の子供の記録が多くの事を語ってくれます。 こうなると、その次の
という記述は全く事実に合わない事柄になってしまうのです。
次は、よくお説教として使われたりする所です。「かのというおなごしがあって、善兵衛の寵をよい事に」教祖にとって代わろうとして、毒殺を計ったという話が(「稿本教祖伝」に)出ています。
二代真柱が昭和25年5月31日に、教祖伝編纂について本部員達に話されたのを、 橋本正治本部員が記録しています。 それによると、「かのの話は芝居の台本を書く人が勝手に書いて、その話が残ってしまったものである。こんな事は何も伝わっていない」と話されています。
「かの」というのは、秀司の娘の名です。これは音次郎の姉で、秀司とおちえとの間に安政年間に生まれた子です(注= 松谷武一『先人の面影』77頁 青年会本部1981年刊。櫟27)。かのという女中がもしもこの時代にいて教祖を毒殺しようとしたのなら、秀司は、自分の母親を毒殺しようとした女中の名前を、可愛い我が子に付けた、ということになってしまいます。そんな事は考えられません。
これについて戦後、資料集成部の主任であった山沢為次氏は、かのという話が幾つも残っているけれども、どれも確かな証拠はない。まして、教祖が家の前を通った白い牛を見て、あれはかのの生まれ変わりだなどといった話は、誰かが作って言いふらしたものと思うと、きちんと本部の記録に載せています(注=「復元」3号42頁。 櫟27)。
文政3年6月11日には、舅善右衛門が62歳で亡くなっています。 このとき教祖は23歳。 翌24歳のとき、善右衛門(のちに秀司と改名)を生んでいます。その後、文政8年、4つ年下の長女まさ、同10年9月9日には二女おやすが生まれた。翌11年には、姑きぬが亡くなった。と出ています。また、「善兵衛は人一倍子煩悩で」親切だったとありますが、これも普通のことです。
子供を懐に入れて針仕事をするはずなどないのですが、当時、よく働いた人を誉めるにはこういう表現も使われていたのでしょう。
また、ある時、米倉を破って米を運び出そうとする者があったが、それを可哀想だといって助けた。また、女乞食に粥を暖めて与え、その子に自分の乳房を含ませられた。というようなことも同じように、劇作家の創作が残されたもので、実際にあったといえることではありません。 劇作家や小説家、例えば村松梢風などは、この泥棒の娘がおかので、恩を仇で返した、と書いていますが、これも全く創作なのです。
その後、教内の出来事として大きなことは、31歳の時に預かった足達照之丞という子供が疱瘡にかかった時のことです。この事については、「救けぞこないの様な話だから、別席の中では話してはいけない」(明治32<1899>年2月2日)という意味のおさしづが出ています。
本当の意味が伝わっていないので、足達照之丞のことは話さない方がいいのです。唯、近所の子供を預かって育てたというのは、近所にも信頼されていた嫁さんであったということです。その子が病気になったとき、 武蔵の大師や稗田の大師にいって願を掛けた、と伝えられています。また、氏神に百日の裸足詣りをし、天に向かっては八百万の神々に願いを掛け、特に、
と言ったということから、これは大変なおたすけだ、などという人もいますが、41歳から教えられたお道の話からすると、跡取りの男の子は大事で、他の女の子は命を捧げても良いなどということは考えられるはずはないのです。 これはお道の話というより、もしも預かった跡取りの子に死なれたら、顔向けが出来ないという思いで、我が子の命捧げても治して下さいと、世間の義理でお願いしたという捉え方の方が正しいと思われます。
『仙台萩』の芝居では、主人公の正岡は子供の千松が若殿の為に死んだ時、人がいる間は、「でかしゃった、でかしゃった」 というのだが、人がいなくなった途端、「三千世界に親あって、我が子に死ねとは」といって、よよと泣くのです。これは義理の場面であり、決して信仰の上での親心であるとか、弱い者を大切にするとか、たすけ心だというように話しては間違いだということです。
稗田の大師、武蔵の大師についても、教祖がそこまで行ってお願いしたとは思えません。 大師講の人が、天理教祖もここで願掛けた、と後になってから箔をつけるために話したとしか考えられません。そして、この二人の子供が身代わりになって迎え取られ、また生まれた、などというのは、生まれ変わり出変わって業を果たすという、輪廻の常識をもった人達の中で語られていることです。
「生いたち」については、事柄をはっきり示すような確かな資料があるわけではないので、この道を始められる以前の教祖の人柄が感じられればそれで十分だと思われます。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?