この時代の物語について(3.11の日にシン・エヴァンゲリオンを見に行く)/一日一微発見200
3月9日に銀座奥野ビル306号室という場所で、『「分裂」と「融合」』というタイトルの写真展を開始した。1週間ほどの短い期間だったが、311東日本大震災から10年めの3月11日を挟んだ大切な展覧会だった。
その場所は、元美容室だった小さな部屋が、生活の気配そのままに時間の経過で廃墟化されて、その空間が奇跡的にその場所を「保存」しようという人々の情熱によって維持されているという不思議な空間だった。
僕はその場所に、306号室プロジェクトのメンバーであり、そして、僕が主宰するスーパースクールオンラインA&Eの受講生でもある野村としこさんとのご縁で、たどり着いた。
ギャラリーのような、作品を飾るための空間では全くない。
ホワイトキューブでない、
日常性が過剰に出た場所で、3.11にまつわる写真展を企画・キュレーションしたらどうか、と思いついたのである。
3.11は僕らに強烈なイメージを残した。
それを撮影した写真を、単純に「作品」として展示することへの違和感があったからだと思う。
声をかけたメンバーは、まずはG/Pのメンバーで、10年前当時いっしょに被災地・石巻に行った小山泰介、緒方範人であり、震災のカタストロフによって写真が始まった赤石隆明、川島崇志らも誘った。
そしてもう一方では、震災が起きた当時は、それをまるでゲームのように感じていた若手3人(しかし精神的な内破は大きい)を誘うことにした。
また、直接的に東北と関わり合いのある野村としこさんのような、306号室メンバーを組み合わせた。
それはある意味では、乱暴とも思われるかもしれない、アクシデンタルな組み合わせだった。
その展覧会の意味と顛末は長くなるのでここではこれ以上は書かない(展覧会に合わせて、ClubhouseなどSNSを使ったイベントや発信などを行った。結果的には250名もの来場があり、展覧会は成功したと考えている)。
9日の夕方設営が終了した。コロナ下ではあるが、用心しつつ、誰ともなしの提案で銀座の飲み屋三州屋に出かけたのである。
小山、緒方、羽地、伊藤、松井、そして僕というメンバーだった。3.11の時に直接現地に赴いた者と、全く関与していない次世代の組み合わせ。おまけに初対面である。
互いの写真の話やらが、ひととおり終わって、誰かが劇場公開されたばかりの『シン・エヴァンゲリオン』の話を切り出したのだ。
伊藤颯はすぐに見に行き、もうずっぽりはまっていた。羽地優太郎もすぐに見に行き、「もう卒業っす」と言った。松井祐生はまだ見に行っていなかったが、逆に、一番作風に影響を与えているのは松井祐生なのかもしれない。
阪神淡路大震災は1995年の1月、オウム地下鉄サリン事件が3月、そしてTV版の『新世紀エヴァンゲリオン』の放送が始まったのが10月だった。ちなみに現代アートを牽引する小山登美夫ギャラリーが誕生するのは1996年だ。そこからアートも変わっていった。
若手3人は、そのころは赤ん坊(羽地優太郎は20歳だから生まれてもいない)だから、劇場版や再放送で、彼らの人格形成と並走して「エヴァ」の物語が刷り込まれていったのだ。
僕は世代が全く違うが、手塚治虫、赤塚不二夫ら漫画揺籃期の初期衝動をもろに人格形成に影響与えられたクチだから、メディアを通した「物語」の刷り込みがいかに強く深いかは、肌身でわかる。
酒を飲みながらヘラヘラしていた伊藤颯が、急に真顔になったのには驚いた。「そのまま2回連続で見たんすよ」とつぶやいた。彼はもう笑ってはいない。事件なのである。口数少なくしていた羽地優太郎も、堰を切ったように話し出す。
僕らは3.11のカタストロフを「物語」として経験し、それはもはや、フィクションとか言って軽く扱ってしまえるようなものではない。
僕らの世代が、手塚治虫の「アトム」や「火の鳥」の「物語」を我が身にあてはめたり、あるいは大友克洋の「アキラ」をあてはめたように、90年代後半以降の人間にとって「エヴァ」は、「今ここ」というユートピアとディストピアが入りまじった時空で生存するために不可欠な、日々を生きるための重要な物語(バックストーリー)となっている。
我々は「物語」をインストールして生きていて、極論すれば「3.11東日本大震災」も、「来るべきカタストロフ」だって、不謹慎な言い方かもしれないが、「予習されてしまった物語」の1つでしかなくなっている。
この居酒屋にいる者は、たまたま「3.11東日本大震災」と「写真」と言うテーマで、偶発的に、アクシデンタルに集まっているにしか過ぎないけれど、声高にはいわないが、それぞれが、大小のカタストロフと変成、そして生きることの意味と無意味、偶然と宿命の物語(それが例え断片的であったとしても)を共有している。
3.11東日本大震災も、羽地、伊藤、松井いや、多勢の若者にとっては、カタストロフの一物語(いちものがたり)にしか過ぎない。「エヴァ」の物語とどっちがシンクロ率が高いだろう?
そして、写真だって、同じく一物語(いちものがたり)でしかないだろう。
その夜から2日後、3月11日の日の朝10時半から浜松のシネコンに、「シン・エヴァンゲリオン」を、渚と一緒に見に行った。
僕は「エヴァ」の物語をインストールして生きてこなかった。「スターウォーズ」も「エヴァ」もそうだが、父と子や善と悪の二元論、おまけに記憶というモチーフが好きじゃないからだ。
しかし、だからと言って「シン・エヴァンゲリオン」を、どうしても今日、見たかったのだ。
この日、10年目のこの日、どこで何を考えるか。それが(それぐらいが)人間が生きていて、せいいっぱいできることだと思うから。
僕は「エヴァ」を選んだのだった。
川島崇志と、すこし前に「3.11と写真」の話をしたことがあった。その時に彼は、「他者の悲しみをネタに作品はつくりたくない」と言った。
写真は戦争カメラマンに代表されるように「他者の悲しみ」で成り立って進化してきた。写真は不幸が好きなのだ。
それでないとするならば、写真は何をすればよいのだろう。
「シン・エヴァンゲリオン」を見終わり、急いで帰宅して、午後2時半からClubhouseをした。展覧会の出展者によびかけて、震災が起きた2時46分をはさんで、2時半から4時まで話したのである。僕は浜松にいたが、2時46分には黙祷のサイレンが鳴った。でも話していて、サイレンが鳴っていない場所もあった。
僕は青空の話をした。
それは今、篠山紀信の写真展『新・晴れた日』に関わっていることもあるし、戦場であれ、被災地であれ、無常に青空が現れることに、心が捉えられているからた。
先日観た上田義彦の映画『椿の庭』。それも「青空」が印象的だった。そしてネタバレになりたくないが、僕が「シン・エヴァンゲリオン」で一番惹かれたのは、やはり「青空」の扱いだった。
Clubhouseでその話をしたら、羽地優太郎がすぐにそれに飛びついた。出身地の沖縄にいるときにガラケーの待ち受けに青空を入れていたと彼は言った。
ちなみに彼がTOKYO FRON'LINE PHOTO AWARDでグランプリを取った作品は、ブルーの粘着テープをモチーフにしたものだった。
それから、僕はデレク・ジャーマンの映画「ブルー」の話をし、伊藤颯が人間の魂の色はブルーなのだという話を続けた。
この話は、もはや我々がカタストロフを追想(リプレイ)するのでではなく、「新しい物語」を始めようとする瞬間だと思うので、ここに記しておく。
「結局」は、これなのではないだろうか、「青空」(ちなみにジョルジュ・バタイユの自伝的小説も『青空』と言う)。
「青空」そしてまた「青空」。
それは、何度も何度も反復されていくだろう。
青空、その「明るい虚無」の反復よ。
そして反復の恩寵よ。
「青空」。
そこに理由はない、でも、ちょっと先が見えた気がする。
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アート思考・後藤繁雄の一日一微発見
「一日一微発見」というのは、僕が師匠だと思っている文化人類学者、故・岩田慶治が日々やっていたこと。 僕はそこからヒントをもらって、もう15…
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