お金を使わない生き方こそ「最幸」だと思う
田舎と都会で暮らしていました。
■田舎にいたとき
■都会にいたとき
都会にいたときのほうが、田舎よりたくさんお金を使っていました。おかげで幸せ・有意義さを感じたこともたくさんあります。
たとえば僕は「大のカフェ好き」ですが、さすが都会。
流行りを感じさせる素敵なカフェ・海外から仕入れためずらしいコーヒー・そのお店ならではのサービスそこかしこ。どのお店に行っても脳を刺激してくれます。
勉強熱心な人たちが集まるコワーキングカフェにいるときは、「自分もやるぞ!」とモチベが上がり、パソコン仕事に打ち込んだものです。
ただ。
都会で過ごした総括は、
ということ。
たしかに消費は楽しいです。
世の中、お金を使うことでしか得られない楽しみがあります。
Google高評価レビュー数1,000超のインドカレー店で最高のランチを食べる。新感覚の水族館に行く。デパートで好きな服を買う。
商品やサービスを買うおかげで、新しい経験が自分のなかに積み上がることもあり、まちがいなく有意義と言えます。
でも、そうした「消費する楽しみ」をくりかえすうち、はじめは有意義だと感じていたものが、だんだん自分のなかで無意味な浪費に切り変わっていくこともあったと実感。
たとえば現地のおいしいパン屋さんにドハマリし、いっとき何度も通っていました。
(倹約家なのにぬかった、、笑)
そこのパンが悶絶するほど美味しくて、何度も買っては食べる。
はじめのうちは新鮮な経験なので、新しい話のネタ・知見を得ることで「自分がある意味成長してる感」さえありました。
でも何度も同じ店に行き、同じものを買ううち、はじめに感じていた新鮮さは薄くなりルーティーン化していきます。
いつしか、もうなんの発見もないパンにくり返しお金を使っている。そんな「ムダ遣いしている自分」に気づきました。
食べているときはドーパミンが溢れ、幸福感MAX。でも食べ終わり、その「値段のついた物体」が胃のなかに流れ去ったあとに残る、あの喪失感。
と感じる自分。
かたや
と、無理やり納得したがるもう一人の自分。
そんな葛藤 (モヤモヤ) を抱えて家路に着くこともあり、ふりかえれば本当に幸せなのか、なんとも言いがたい休日を過ごした記憶があります。
お金をたくさん使うこと。
大量消費すること。
それらは、かならずしも心を幸せにしないのかもしれません。むしろ損失感を増大させ、長期的にはある種の不幸を感じる原因になるのかもしれません。
* * *
いっぽう田舎で暮らしていたとき。
収入が少ないぶん倹約していました。お店や娯楽もほとんどない農村地域のため、必然的にお金を使う機会が減り、生活費は月6~8万円くらいでした。
そうした暮らしがつまらなく、不幸だったか?答えはNOです。
人間、一度その場所に住みはじめた以上、「いかにその環境を最大限に楽しむか」という主体的な考えが働くもの。
その田舎にいたとき。
まわりに何もないこの場所での生活をどう楽しむか考え、まっさきに思い浮かんだのは「散歩」です。
それもただの散歩じゃありません。
早朝の散歩です。
田舎は静かです。
まわりは畑。
遠くに山。
野生のシカ。
外にいるときにぐるっと見まわして、遠くに高齢者が1人見つかるか否かというレベルです。
そんな環境のなか、早朝5時頃。
つまりほとんどの人がまだ寝ていて、空が白み始めるなか自宅の周辺を歩いていたとき。
都会ではとうてい味わえない「無料の自由と爽快感」がそこにはありました。
幸せとはお金をかけることで得るものじゃなく、すぐそばの何気ない物事に見出すものなんじゃないでしょうか。
そして、お金を使わずに幸せを感じる心こそ、経済的・精神的に豊かに生きるうえで大切な「人間性の宝」ではないでしょうか。
もちろん都会より田舎のほうがいい、と一概に決めつけるわけじゃありません。田舎にない魅力や楽しみが、都会にはたくさんあります。
ただ。
どこにいようと、お金を使わない暮らしの豊かさを噛みしめる。そうすることで幸せになれるのは、きっと間違いないかと。
幸せは、お店・商品・他者の許しや働きかけといった外的要因によってもたらされるものじゃない。物質的な所有・見栄によって得られるものでもない。
ただ自分の内側から気づき、感じとり、とらえ方や工夫によって日々の生活から見出すものなんだと。そこにお金が発生する必要は必ずしもないんだと。そう思います。
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