選ぶのは、罰する法律?助ける法律?—アメリカの「中絶禁止」と「日本の配偶者同意」から考えたこと
最近、特に、女性のリプロダクティブ・ヘルス・ライツについて考えをめぐらしています。先日は、アメリカの中絶禁止論争について書きました。女性の権利をめぐる政治的な闘争であることは理解でき、その部分には賛同する一方、妙な違和感がぬぐえませんでした。プロライフ(中絶絶対禁止)派の主張が、いかに中絶が悪いことか、禁を破った者をどう罰するかに終始していて、生まれてくる赤ちゃんと母親をどう支援するのかという話が聞こえてこなかった(既存の政策論争から判断するに、むしろ消極的)からです。
中絶法制化について、NYの元ジャーナリストに聞いてみた
そこで、この矛盾について、CUNY(NY市立大)ジャーナリズム大学院での恩師に質問してみました。彼女は、ボストン・グローブやNYタイムスで30年以上のキャリアを積んだのち、教職に転身した人物。70年代から、フェミニズム運動をリアルタイムで見てきた生き証人でもあります。
まず彼女は、母子支援の実態について、参考として記事をふたつ推薦してくれました。ひとつは、中絶禁止を法制化した、あるいはする見込みの州の母子政策の現状についての記事、もうひとつは中絶できなかった女性と子どものその後を調査した結果についての記事です。
生まれた&産んだ後には、法律は助けてくれない
前者の記事は、アメリカ全州をデータで比較したもの。チェック項目は有給の育休、男女の賃金格差、健康保険加入率、保育の費用、妊産婦死亡率の5つ。保守派の州ほど、有給の育休が法制化されておらず、男女の賃金格差は大きく、健康保険に入れない女性が多く、妊娠・出産による女性の死亡率が高い傾向にあることがわかります。例外は保育費用で比較的低額ですが、保育従事者の待遇が悪いことが原因で大量離職が問題になっています。
後者は、カリフォルニア大学サンフランシスコ校、産婦人科・生殖科学科の研究を紹介しています。追跡調査によれば、中絶を法的規制により受けられなかった女性は、5年後、独身で、定職についておらず、パートナーや家族からのサポートも得られていない可能性が高い。そして、その状態から抜け出せないと感じ、それゆえ、自身の子への愛着を感じにくいというのです。
さらにこの記事では、母体の疾病率、乳児死亡率、低体重での出生、子どもの貧困、医療・保育・フードスタンプ(*食料を買うための兼、生活保護の用や役割を果たす)、住居へのアクセスなどのデータが、望まぬ出産を強制することにはネガティブな影響があると示していることを指摘しています。さらに、そこに目を向けようとせず、道徳的な取締りを追求しているのが、「白人」「男性」の政治家たちであることもさり気なく言い添えています。
フェミニストが分析するプロライフの本心
こうした現状について、恩師自身は、次のようなコメントを寄せています。彼女の分析は、非常に生々しく、手厳しいものでした。
わたしがドキッとしたのは、白人女性である彼女が、プロライフ政策の人種差別的側面に切り込んだことと、潜在的な行動原理を説明するのに「罪(sin)」と「罰(punish)」という言葉を用いたことです。誰が誰を罰そうとしているのか?法制化に積極的なのが白人男性の政治家ばかりであることを考えれば、含意は明白です。
このことを指摘しているのは彼女だけではなく、保守の政治家たちは白人以外の福祉には興味がない、男性が女性をコントロールしようとしていると批判する論客はたくさんいます。それでも、長く現場を見てきた、その社会の一員である人の実感として聞くと、リアルな重みを感じざるを得ません。命の大切さという、実に反論しにくい題目が、通常なら批判されかねない思想をマスキングしてしまう怖さも改めて感じます。
日本で「配偶者同意」が意味すること
これを外国の出来事、日本とアメリカは違うといって流せるでしょうか?わたしはそんなふうに楽観的になれません。先日、フランスの匿名出産と日本の内密出産を比較して考えたとき、わたしが改めて実感したのは、女性の生殖と性の健康と権利に関わる日本のしくみが、女性自身の意志を尊重していない、ときに罰ゲームになっていることでした。
つい先日(5月17日)には、厚生労働省が、経口中絶薬の承認には「配偶者の同意が必要」という見解を示し、批判を招きました。厚労省の見解は、1996年に制定された母体保護法に基づくものですが、まさにこの法律が「女性の身体を誰のものとみなしているのか」「誰を助けるためのものなのか」問われた結果だと言えます。
さらにいえば、日本は2016年の時点で、すでに国連の女子差別撤廃条約委員会から、配偶者同意の規定を撤廃するように勧告を受けており、それを考えればいかに女性のリプロダクティブ・ヘルス・ライツが軽視されてきたかも想像できると思います。
法律、制度、しくみといったものには、少なからず道徳的な価値判断が含まれます。しかし、それが誰の価値観なのか、それが問題です。なぜ女性の身体にかかわることについて、女性の意志が尊重されないのか?政策を主導する立場にある政治家や医師が、圧倒的に男性だということに、容易に思い当たることと思います。法律が社会の絶対的ルールであることを考えれば、特定の集団の見解が強く反映され、その集団が力をふるう手段になってはならないということは、日本であれアメリカであれ、世界的に共有されている認識だと思います。
法律は、すべての人のためのもの
たとえば、日本で、「法律」「何のため」と検索すると、トップに出てくるのは法務省のきっずるーむ、子ども向けの解説ページです。口ひげをたくわえたキャラクターが、次のように解説してくれます。
これ以上、わかりやすくて説得力のある説明が存在するでしょうか?
深くうなずきつつ、法律がみんなを守り、生活を豊かにするためのものだからこそ、みんなで注意深くチェックしないといけないとも思います。誰もが子どものころ、法律は良いもの、絶対的なものだと教えられます。しかし実際は、法律は人が作るもの。人は間違えます。誰かにとって「良い」法律が全員にとって良いわけではないこともあります。そして、時代が進むにつれてみんなの「良い」が変わることもあると、大人になった私たちは知っています。
女性の生殖と性の健康にまつわる権利は、まさにその一例です。かつて女性は男性に従うべきという考え方が支配的だった時代があり、法にはその名残りが見え隠れします。しかし現在はどうでしょうか?徐々にそれは間違っていると考える人が増えてきています。そうであるなら、法律やしくみは、女性の「権利を守り」、「自由に活動」できるようにし、「生活を豊かに」するように変える必要があります。
とはいえ、女性の声は、届きにくいのが現状です。だからこそ、嫌なニュース、とくに制度やしくみが悪い方に働くのを目にしたとき、うんざりして目をそらしてしまうのはやめようと思います。わたしはある時期から、ひっそりと自主規制するのをやめました。おかしいと思ったら意見を言ってみる。同じ考え方の人にいいねしてみる。署名してみる。選挙のとき、候補者の考え方や政策を調べてから投票する。意見を言うのは、単に不満を吐き出したいからではないのです。相手を論破して、罰する側と入れ替わりたいからでもありません。困りごとを減らして、みんなで今より楽になりたいからです。
「罰をちらつかせて誰かを従わせる法律」と「困っている人を助ける法律」。どちらがいいでしょうか?答えは明白なんじゃないかなと思います。