短編小説_少女は白線に迫る。#月刊撚り糸
吉野さんが赤信号の横断歩道をずいずい渡っていく。
斜め後ろで声をかけるか迷っていたわたしは呆然と彼の背中を見送るしかなかった。そのせいで青信号を見送ったことも終電を逃したことも言えなかったし、それがきっかけであなたに恋をしましたとも、もちろん言えなかった。
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「吉野さんっていかにも真面目で仕事人間で、とっつきにくい感じでしょ。
だから髪をぼさぼさにしてヨレヨレのシャツ着せたら絶対周りから嫌厭されると思うんだけど、なまじ清潔感あって爽やかだし、顔だってちょっとジャニーズっぽいから、わたしも他の子達と一緒にこそこそ見てたんだよね。七瀬はあんまり興味なかっただろうけど、そういう女子社員多いんだよ。
それが去年の忘年会の帰り、そう、部長が潰れて迎えに来た奥さんにしこたま怒られてたとき。
終電ある人は先に帰ることになって、会費だけ置いて外に出たらすでに吉野さんが駅方面へ歩いてたの。吉野さんも埼京線に乗るのかな、だったらラッキーだな、と思って声かけたかったんだけど、飲みすぎちゃったのと吉野さんの歩くスピードが早いのとでなかなか追いつけなくて。
それによく考えたらふたりきりになっても気軽に振れる話題もなくて、好きっていうよりもみんなではしゃぐのが楽しいだけかもって気づいちゃったら面倒くさくなってたらたら歩いてたんだけど、ちょうど吉野さんの目の前の横断歩道が赤に変わった。
繁華街のはずれの、白線なんか三本しかないような、あってもなくても誰も困らないような横断歩道。そういうの、たまにあるでしょ。
あーあ、どうしよう、でも挨拶しないのもね、って思って仕方なく覚悟決めたら、吉野さん、歩調を緩めるでもなくスタスタ渡っていったの。
意外でしょ。あの吉野さんがだよ、当然ピシッと止まって、押しボタンもきっかり一回だけ押して待っているものと思うじゃない。それがまるで黄色い点字ブロックのラインなんかないみたいに、電車の音のする方へ歩いていく。
あのとき吉野さん、どんな顔してたんだろう。想像できないし、なんだかちょっと怖いよね。うん、わたしも。
大体の女子社員が知っていることだけど、吉野さんに婚約者がいるのはいわば周知の秘密じゃない。だから結局他の子も、わたしも、キャーキャー言ったりはするけど本気ではないみたいな、そこはちゃんと線を引いてたと思うんだよね。
ほら、あの忘年会のあと、新年早々部長が暗い顔しててさ、係長が「どうかしたんですか」って聞いたら「妻と離婚した」って言ったでしょう。
あれ、なにげにみんなショックだったと思うんだよね。近しい人がそういうことになったのもあるけど、あの夜部長と奥さんのやりとりの一部始終を見ちゃってたから、生々しさとかやるせなさがダイレクトに伝わりすぎてさ。
知らないほうがかえって声をかけやすかったろうな。七瀬はそんなことなかった?
だからどうしてそうなったのかとか、説明しようとするとすごく難しいんだけど。
橋本さん以外にも気がついた人いるかな、吉野さんのネクタイが昨日と同じなの。そう、紺地にオレンジ色のラインが交差して入ってるやつ、結構特徴的だもんね。あれ、結んだのわたしなんだ。
高校のとき制服が男女ともネクタイだったから結構得意なの。ネクタイっていろんな結び方があるの知ってる? 一番スタンダートで簡単なのがプレーンノット、結び目が大きいウィンザーノット、複雑だけどおしゃれなトリニティノット。うちの学校は割りと厳しかったからそういうところでしか遊べなくて、友達とあれこれ練習したんだ。
その頃以来ネクタイ結ぶ機会なんてなかったけど、案外手が覚えてるもんだよね。
吉野さんが先にうちを出て、一緒にならないようにわたしはあとから追いかけた。出掛けに見慣れないボールペンが部屋に落ちてるのを見つけて、吉野さんのだって思ったらなんか嬉しくて、鞄じゃなくてジャケットの胸ポケットに引っ掛けて家の鍵を閉めた。馬鹿だよね。
でもそのときはね、なんだ普通の恋じゃない、って思ったの。修羅場みたいなことも起きなかったし、吉野さんも普通だし、ドラマとか映画で見るようなことは何もなかった。
いいのかなって思う瞬間もあったけど、そっと顔を伏せたら吉野さんが言うの。「なんか少女っぽいね、それ」って。あんな顔で言われたら、そんなの、もうだめじゃない。
でも世の中って上手にできてるんだね。どん底に落ちる瞬間は、大丈夫かなって心配してるときじゃなくて、必ず何もかも思い通りになるって信じてるときなんだよね。急下降するみたいなめまいがしたよ。
そう、教えてくれたのは橋本さん。「ねぇねぇ、続報続報!」なんて言って小声で「他の部署の子が言ってたんだけどさ、吉野さんの婚約者、会社関係のひとらしいよ」って。
「誰だろうね~!」ってはしゃいでるふりするので精一杯だった。すぐに気がついて胸ポケットのボールペンもスカートに隠したけど、きっと意味なんてないよね。見てるひとはちゃんと見てるし、気づくひとはちゃんと気づいてる。
婚約者なら、ネクタイの結び目がいつもと違うことにだって、ちゃんとね。
その日は午前中に社外の人と打ち合わせして、お昼は七瀬と社食で済ませて、午後からは雑務こなしながら電話対応して。そこにはたくさんの女性がいて。あのひとかな、このひとかも、なんて思ってもキリがなくて。
「妻と離婚した」って言ったあの日の部長の、目の下のどす黒いクマだけがなぜか何度も思い出されて。
できるだけ誰にもわからないように吉野さんを見た。吉野さんの席はわたしの席の斜め前だから、ひとに気付かれないように見るのはそう難しくないの。
そうしたらね、吉野さん、いつも通りだった。昨日のミーティングのときとも、ベッドで膝が触れ合った瞬間とも、ネクタイを結び終わったあとに「ありがとう」って微笑んだときとも変わらず、いつも通り清潔感があって爽やかで、顔はちょっとジャニーズっぽい吉野さんだった。
ねぇ、それっておかしいと思わない? ううん、絶対におかしいよ。どうして普通にしていられるの。どうして何もなかったみたいに振る舞えるの。おかしい、絶対におかしいよ。
でも、ふと思ったの。わたしたちが引いていた線って、吉野さんには見えてたのかなって。見えていないものはないのと同じじゃない。赤信号だって意味を知らなければただの点滅でしょ。いや、さすがに知らないってことはないだろうけどさ。わたしもおかしなこと言ってるよね。
そう考えたら胃の奥から何かがせり上がってくるみたいに気持ち悪くなっちゃって。今も誰かがわたしを見てるんじゃないかって思うと怖くて溜まらない。でも話したらちょっとだけ落ち着いた、ありがとう、七瀬」
そういって彼女は誰もいない医務室のベッドに横になった。
しばらくして寝息を立てはじめたのを見計らい、彼女のスカートのポケットを探る。固い感触をつまむと見慣れたボールペンが顔を出す。アルファベットで「YOSHINO」と入ったそれは、確かに彼のものだった。
ボールペンの背をノックして、ペン先を出す。黒いインクが先端に滲み、使い込まれているのがわかる。よりにもよってこれを落としてくるなんて。
夕焼けが白い医務室を染める。眠る彼女の頬は赤い。「なんか少女っぽいね、それ」と言って、彼はこの頬にキスしたのだろうか。ボールペンの背をノックする親指に力が入る。
わたしは、わたしは、