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異星人とペティナイフ #月刊撚り糸


まさか押し倒す側になるとは思わなかったが、見下ろした佐竹の白いおでこが意外にも優越感を刺激して。

「ちょっと、可愛く嫌がってみて」
「突然の無理難題だね。そんな高等テク持ってないよ」

 いつも笑顔を崩さない佐竹の呆れたような、困ったような表情に征服欲まで掻き立てられる。これは癖になるな、と思いながら何気なく髪に触れると、佐竹が私の肩を押して上半身を起こした。

「なんだ、嫌なの」
「好きな子にされて嫌なことなんてないよ」
「押し倒されても、髪を触られても?」
「むしろ歓迎するね」
「十字固めでも、正拳突きでも?」
「チョイスが謎だけど、まぁ、じゃれ合いの延長だと思えば」
「変わってるね」

 吉野ほどじゃないよ、と言いながら佐竹はシャツの襟を直す。

「変わってるよ。私なら、いくら好きな人を励ますためでも一個5000円の桃は買ってこない」

 テーブルの上に目をやると桐の箱がことんと座っている。中身はまだ一度も開けていないが、こころなしか瑞々しく甘い香りが漂ってくる気がする。仕事柄果物には詳しいはずなのに『金色桃』なんて見たことも聞いたこともなかった。

「じゃあもう変わり者でも変態でも、なんでもいいから早く食べようよ。桃、好きでしょ」

 包丁とお皿持ってくるから、と佐竹は台所へ消えた。他人の家のものを勝手に把握するんじゃないと言ってやりたかったが、そんな気力もなくベッドに横たわる。まだわずかに温かい。佐竹のぬくもりだ、と思ったら急に吐き気がして、身体を丸めてうずくまった。


***


 22歳。自分のお店を持つのが夢だった。生まれてはじめての神頼みではない夢だった。

 開店のために数年間必死で働いた。休みの日には参考になりそうなカフェやバーを片っ端から巡った。志しのもとには人が集うものらしく、手を取り合えるパートナーも見つかった。知識も、口座の数字も、倍速で増えていく。順風満帆だと思っていた矢先、相手が消えた。偶然かわからないが貯めていた資金も一緒に消えた。そのひとは私の恋人でもあった。

 その頃から頻繁に咳が出て止まらなくなった。肺の上がヒューヒューと音を立て、思ってもみないところで突然むせる。病院にかかってもなんの異常も見つからない。もう一度見てほしいと食い下がると、心因性だと言って診断書を書かれた。帰り道、破って駅のゴミ箱に捨てた。

 他人の情が信じられなくなった。手酷い裏切りを考えれば当然かも知れないが、悲しみよりも惨めさが勝った。「死んでもいいわ」と思った途端に、愛のほうが先に死んだなんて笑えない。

 佐竹はまるで私がこうなることを予測していたみたいに、以前にも増してよく尋ねてくるようになった。好きだ好きだと鬱陶しい元同僚でも、弱っているときはいてくれた方がいくらか気が紛れる。何度か家に上げるうち、こだわって買ったゾーリンゲンのペティナイフは佐竹の方がよく触るようになり、手入れも彼がしていた。


***


「可愛いけどさ、悪い癖だよ、それ」

 知らないふりをして取り消しボタンを押し、電子レンジを止めた。冷凍のお好み焼きが温まるまでの6分30秒まで、残り5秒足らず。待たずに皿を取り出す。

「可愛いの、これ」
「可愛いよ。待ちきれないって感じで」

 変なひと、とつぶやいてお好み焼きを台所で頬張った。お箸は洗うのが面倒だから割り箸で、皿はずっと昔に人を呼んだときに使った紙製のやつの余り。使い捨てられるものが今はもっとも身体に優しい。

「それなら佐竹も、とっても可愛いよ」
「滑稽の間違いでしょ。包丁持ってうろうろさせないでよ」
「だって、食べたくない」

 そう突っぱねると佐竹は静かにペティナイフをテーブルに置いた。抜き身の刀身がギラつくのを見て呼吸が浅くなる。迷子になった青のりが気管に紛れ込んでひどく咳き込む。一度喉がおかしくなるとしばらく止まらないのに。耳の奥がじんと痺れる。自分の呼吸音がうるさい。

「落ち着いて、これ飲んで。大丈夫だから」

 佐竹が背中を撫でながらコップを差し出してくれる。ヒューヒューと風穴の空いたような身体にひとくちずつ水を流し込む。コップ一杯を飲み干してようやく落ち着いた。こんな状態がもう三ヶ月も続いている。

 もやが晴れれば急激に、手のひらから伝わってくる佐竹のぬくもりが気持ち悪い。内臓がえぐられるようにぐるりと反転する。あからさまに身を離すと、佐竹もすう、と離れて。

「ねぇ、やっぱりしようよ」

 逃げた佐竹を追いかけるように膝をついてにじり寄る。吐き気が喉元までせり上がる。濃く薫る瑞々しい甘さ。自分でも矛盾していることはわかっている。

「どの口が言ってるの」
「この口ですけど」
「俺は得しかしないけど、吉野は損しかしないよ」
「そういう決めつけるところ、嫌い」
「俺を傷つけても意味ないし、事実でしょ」

 事実。じじつ。そう言われて納得してしまいそうになるのを、唇を強く噛んで食い止めた。

「得とか損とか、どうでもいい」
「損得勘定は人間に備わった生命維持機能だよ」
「いいの。エイリアンだから」
「通りで月の裏を夢見るわけだね」

 はは、と声を出して佐竹が笑った。また呆れたような、困ったような顔。

 髪に触れかけた手をまた払われる。指先がじんと冷たい。しばらく外に出ていないしニュースも見ていないけど、季節は確かに冬へ向かっているらしい。

 意味がないというならどうして他人など傷つけるのか。失えるものはあらかた失って、残ったものが事実だとでもいうのだろうか。

「好きだったものを嫌いになる辛さなんて、わからないんでしょう」
「わからないよ。でも、好きだから苦しいのは、わかるよ」


 佐竹は桐の箱を置いたまま帰った。側面に『金色桃』と墨の文字が入った重々しい箱なのに、やはり香りだけは濁流のように漏れてくる。熟しすぎた腐りかけの果物のような。

 ベッドに横たわるが、桃の甘い香りが重たくて敵わない。捨てようかとも思ったが家の中にある以上、この重さはきっと変わらないだろう。

 ふいに、思いついて乱暴に箱を開ける。胃の中に入れてしまえば匂いなんてわからなくなる。説明書き兼目張りのためのシールをびりびりに破ると、姿を表した。緩衝材の海に溺れた果実。濃い赤紫と黄色を混ぜたような、これが『金色桃』。

 両手ですくって持ち上げる。柔らかい産毛の感触と、美しい丸み。芳香が滝のように落ちてくる。大事に両手で包み、そっと頬を寄せ、産毛に口づけ、そして噛み付いた。

 歯が果実に食い込むたびに甘い汁が膝を汚すが、構わず食べ続ける。舌に皮が張り付いて取れないが、それでも食べ続ける。前歯が何度も種をかじり、黄色い果肉を掠め取る。もはや味なんてわからなかった。佐竹に申し訳ないな、と思いながらも食べ続ける。必死だった。


 イメージは暖かみのある木目調の内装に、ふかふかのソファを置いたテーブル席をいくつか、そしてカウンター席を並べる。ドリンクを作るオープンキッチンに、気の利いた洋楽はあのひとの方がきっと詳しい。そんな夢を見ていた。ずっと、見ていたかった。

 テーブルには包丁が抜身のまま置き去りになっていた。刀身は鏡のように磨かれ、大事に手入れされているようだった。

 ペティナイフは、思い出す。日本橋で何軒も店をはしごして、ようやく決めた一本だった。家に帰って試し切りをしてみようとふたりで盛り上がる。手提げ袋を振り回しそうなほど楽しい。使う前から何もかもがすでに完成していた。完成していたものは、そう簡単に使い捨てられやしなくて。


 確かに、損得勘定は人間に備わった生命維持機能だ。だから私は、死にかけた。


 あらかた食べ尽くして、手のひらにやっと収まるようなサイズの種が残った。何度も歯が当たったもののほとんど傷らしい傷もない。あらかじめ刻まれた皺だけが静かに貞淑としていた。

 思い出せないほど久しぶりにカーテンを開けてみる。あたりはまだ暗い。しかし光がある。遠くの空が白々と起き出していた。太陽はまだないが、明るさが迫ってこようとしている。

 シャワーを浴びようと脱衣所で服を脱いでいると、汚れた鏡に女の顔が映った。顔色が悪く、クマも酷い。髪も伸び放題だし、肌もカサついている。そして、ついでに歯には青のりと桃の皮の切れ端が。

「変なひと」

 狭い脱衣所は声が響く。はは、はははは。変なひと。あはは、笑える。


 お風呂上がり。ペダルを踏んで開けるタイプのゴミ箱に、生乾きの種を落とした。




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七屋 糸
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