春と彼女とわたしとかぜ。
彼女に買い物を任せて、わたしは店の外に出ていた。真新しい幹線道路に生ぬるく湿った風が吹く。今日は朝から小雨が降ったりやんだりしている。太いタイヤをつけた自転車が、アスファルトとの摩擦音を大袈裟に立てながら通り過ぎていく。
彼女が白いビニール袋を下げてローソンから出てくる。無表情な彼女がわたしに近づく一瞬だけにこりとした。
「飲み物、飲む?」
今は大丈夫です、とわたしが言うと、彼女はビニール袋からペットボトルのキリンレモンを取り出して3分の1くらい飲んでしまう。ぷは、と小さく息を吐いた。
「じゃ、行こう」
信号を渡って玉川上水の流路跡にある緑道を歩く。桜は散り始めている。桜はわたしがしつこい風邪をひいている間に咲き、風邪が治ると同時に散ろうとしていた。彼女が「お花見行こう。今日ラストチャンス」とすごく熱のこもった瞳で言ってくれなかったら、今年の春は桜の花を見ずに終わっていたかもしれない。
自分の部屋に備蓄していた食べ物や、彼女が買って帰ってきてくれたもので直近10日間くらいを過ごした。掃除や洗濯はやらなくちゃいけないが、むしろやるべきことはそれくらいしかなかった。一度だけ夜に駅近くまで野菜を買いに行ったくらいで。
だからか知らないが、日差しがまぶしい。視界が白い。街が明るい。人々が動いている。
風がやわらかく吹いて桜の花びらが降ってくる。クリーム色のパーカを着た彼女は、飛び跳ねて空中を漂う花びらをつかもうとする。子どもっぽいと思うが、その活気がわたしの心と身体に溜まった何かを振り払ってくれるような気がした。
「ねえねえ、このハト。すごい。逃げない。ずっと待ってる」
何メートルも先を歩いていた彼女が興奮しながら言った。ハトはビニール袋からなにかおいしいものが出てくることを知っているのだろうか、彼女の足元でじっと待っている。
「からあげクン、あげてみる?」
追いついたわたしに彼女が言った。
「食べ物あげたらだめですよ」
「ね、やっぱりだめだって。共食いになっちゃうからね」
そういう意味じゃない、と思ったが、ハトにまじめに話しかけている彼女がかわいくて、そのまま見守った。
消防庁の建物の後ろの路地を歩く。ここにも桜が植えられていて、風が吹いて花びらが舞う。前を歩く彼女の頭の上に花びらが落ちるのが見えた。と同時に彼女は顔を左右に振って払った。ショートボブに切り揃えられた金色の髪がふわりと浮いた。春はとっくに始まっている。桜が散ればもう終盤だ。季節は進んでいる。思い出したようにぽつりと落ちてくる小さな雨粒も、ぬるいような気がする。
新宿方面に向かって下っていく京王線の高架橋をくぐり、甲州街道を渡る。こちら側の笹塚に来る機会は少ない。サミットストアで買い物するときくらいだ。
中野通りを渡る信号待ちのときに、彼女の履いているスニーカーのひもが解けかけていることに気がついた。指差して教えて、彼女からコンビニのビニール袋を預かる。彼女が屈んでひもを結び直す。結び終わると同時に信号が青になった。歩き出して数歩、ばちゃん、と音がした。コンビニで買い物したビニール袋がわたしの手から滑り落ちていた。
パッケージごと横断歩道に落ちたからあげクンを彼女が素早く拾い上げた。ころころと転がった三ツ矢サイダーのペットボトルはスーツを着たお兄さんが拾ってくれた。ふたりで礼を言って横断歩道を渡る。
「ごめんなさい」
「気にしなくていい。私が持つよ」
彼女はそう言ってわたしの手からビニール袋を引き取った。
ローソンを通り過ぎてひとつめの角を曲がる(笹塚で一番多いコンビニは体感でローソンだ)。小学校の横を歩く。この路地の突き当たりに小さな公園がある。
立派な桜の大木が2本あって、その下で10人くらいの子どもたちがおにごっこをしている。道路脇で公園の擁壁の陰に隠れてじっとしている男の子が一人いる。
「公園、もう一か所あるから」
通りを挟んでその男の子を見つめながら、彼女が言った。たしかにこの中でお花見はできそうにない。
公園の角を曲がって水道道路に出る。うっすらと降っていた雨が止む。こじんまりとしたキャンティ本店の前を通って右に曲がり、十号坂を下る。
ここは地味な商店街だ。東京の坂を下った先には、大抵微妙に蛇行する川の跡のような道が左右に走っているもので、ここも例に漏れずそうなっている。交差点を左に曲がると右側に公園があった。
フェンスで囲われた空間の中で小学生の集団がバラバラに遊んでいる。こんなにたくさんの小学生を見たのは久しぶりで、その密度に目が回るような感じがした。
フェンスの外側には狭いながら普通の児童公園のような空間が広がっていて、ベンチもある。ふたりでベンチに座って少し冷めたからあげクンを食べてみる。からあげクンは2種類あって、でもどちらもチーズ味だった。とろーり濃厚チーズ味と、香ばし焦がしチーズ味。
「おいしい?」
「……、おいしいです」
わたしがとろーり濃厚チーズ味を咀嚼するのを彼女が凝視する。なんだか恥ずかしい。口の中をこくのあるチーズソースが満たしていく。
「よくかんで食べて」
「はい」
わたしがからあげクンを嚥下するまで彼女はずっとわたしを見つめていた。
「私、本当はお花見なんてどうでもいいと思う」
つまようじに刺したからあげクンを薄曇りの空に掲げて彼女が言った。からあげクンで雲の向こうに透けて見える太陽を隠しているらしい。左目をつぶって空を見上げているのが、なんだかかわいい。
「でも一緒にお花見しようってなったら、ちょっと特別。それに、桜じゃなくて、たんぽぽとか、ほとけのざとかでもいい」
ほとけのざ、なんて子どもの頃以来に聞いた気がする。
「だいたいなんでもたのしくなっちゃう友だちがいて、私はうれしい」
彼女の右目の端が少し濡れているように見えた。彼女はわたしのほうを向いてにっこりする。
「だからね、さーさちゃんの風邪が治ってよかった」
「ふふ〜。こちらこそ看病してくれて、ありがとうございました!」
「うん!」
たかやまさんは元気に返事をして、大きく開けた口に太陽の暖かさを吸ったからあげクンを放りこんだ。
たかやまさん
「この後100円ショップ寄って帰ろう。駅じゃないほうの」
十号通りを歩きながら、たかやまさんが言った。
ささづかまとめ
「なにか買うんですか?」
たかやまさん
「にぎにぎするやつ買ってあげる」
ささづかまとめ
「にぎにぎするやつ?」
たかやまさん
「うん。金属のバネみたいな。筋トレするの」
ささづかまとめ
「あー、あの握力鍛えるやつですかあ」
たかやまさん
「さーさちゃんもの落としすぎだから。今度またデジカメアスファルトに落としたらさすがに引いちゃう」
ささづかまとめ
「あのぅ、それトラウマなんですけどぉ…」
たかやまさん
「だから鍛えよう。二度とボウリングのボールを足に落とさなくて済むし」
ささづかまとめ
「あれほんとに痛かったんですよ…ってそれもトラウマです!」
たかやまさん
「地方の電車のドア開けるボタンも押す力足りなくて、高校生の女の子に押してもらってたけど、筋トレすれば大丈夫」
ささづかまとめ
「あー! それはいい感じに忘れてたのに〜!」