完璧主義なんてやめちゃえ
完璧主義って、すべて完璧にこなすイメージですよね。
「あれはこうしないと。」
「ちゃんとやらなきゃ。」
みたいな気持ちが自分の中にいて、行動・言動にも現れています。
人にも言われ、自分でも思う、私は完璧主義な人間寄りです。
そんな私が、完璧主義をやめようと思ったことを書いてみようと思います。
そもそも、なんで私は完璧主義な考えをするんだ?って思いました。
どうして私はこんなにも「ちゃんとしないと!」みたいな思いがあって、常に緊張している気持ちになるのか。
いつも先手先手を打つ感じ。
誰かの目が常にある感じ。
現実にそうゆう目があるわけじゃなく、自分の思考の世界の中で作り上げた存在を相手にしているイメージ。
これ、中々しんどいんですよね。
今は少し平気になったけど、以前は人になにか指摘されると、「言われてしまった私はなんてダメなんだ…」ってめちゃくちゃ自分を過小評価して落ち込んでいました。今なら指摘してくれてありがとうと思えるようになりましたけど、本当に前は、この世の終わりみたいに、その日の心はぐらついて、ざわざわして、家に着いてもずっと考えていました。
あのざわざわしている時間が、なんて居心地が悪いことか。過ぎたことなのに、永遠にその場をリピート再生している私がいました。今は、寝たら大体は忘れることができるようになりましたけどね。時々は忘れられなくて、しんどい時もありますけど。
今なら思う、私は怒られたり、人から何か言われることに慣れていなかったのかもしれません。特に怒られたら、もう何も考えられなくなって、怖くなってしまうから、そうゆう状況にならないように、怒られないような立ち回りを無意識にやっていたのだと思います。それが結果的に「いい子」になっていったのかもしれません。
「いい子」って言われたことがありますし、自分でも無意識に「いい子」をやっていたと思います。真面目にやらないと、みんなも頑張っているから、でも苦しいよー、と逃げ場のないループに何度も嵌っていました。
なぜ「いい子」をやるようになったのか。悪い子に思われたくない、見放されたくない、そんな気持ちがあったのかもしれないです。でも、なんでそんな不安があったのか?多分、なんかあるのでしょう。これは、きっと、子どもの頃の内面を掘り下げる必要があるので、ここでは割愛します。(でも、いまだにわからない。今後、掘り下げる時に掘り下げたい、しんどくない程度に)
「いい子」で完璧主義をやっていたら、段々疲れてきたんですよね。しかも、碌なことがなかったです。そりゃそうでしょうね、自分に仮面をつけて、無理して完璧にやって、つま先立ちしていたけど、少し押されれば、すぐ倒れてしまう状態だったのですから。
でも、それは私自身の世界だけで、自分で自分の首を絞めていただけなんです。
自分で苦しい状況を作っていただけ。自分が勝手に作ったマイルールに従っていただけ。
しかも、いい子じゃない、完璧主義じゃない他人を見たら不満が出てくるんですよ。
「なんであの人は動かないの」
「なんで私だけ頑張ってこんな大変な思いをしなきゃいけないの」って。
その不満やイライラは、私がしたいことを他人がしているからそう思うんだって気づいたんです。
あ、私は楽をしたいんだ、私はいい子をやめたいし、完璧主義もやめたいんだって、自分の本音に気づいたんです。
(まあ、これに気づく直前に、自虐的に頑張り過ぎて、メンタルがやられてしまったので、これに気づいたのは、半強制的な部分もありました)
気づいてからは、もう完璧主義になりすぎないように適度に手を抜くことを意識しています。完璧主義は悪いものじゃないんです。完璧主義なところがあるから、仕事を丁寧にやるし、やるべきことはやるし、全体に意識を向けられるから、いいところもあるんです。行き過ぎると、苦しくなるってことですね。
「いい子」でいたい私に対して、そんなに頑張らなくてもいいんだよって言い聞かせて、最近は、それでいいんだと思えるようになっています。できる範囲でですけど、人に頼ることも大事なスキルだと思って他人と関わるようにしています。
時々、自虐的になって「いい子」や完璧主義が発動することもあるけど、それらも捨てなくていいし、上手く付き合っていけばいいんだと思います。
そう、ゆる脱完璧主義!白か黒ではなくグレーで。グレーでも、色々な濃淡があるから、そこをいったりきたり。自分が心地いい色を探して、心もゆったりできるように過ごしています。
完璧主義は、ほどほどくらいが丁度いい。