神のお告げで退職し、小説家の山を登る
私が人生で初めて会った小説家はアラブ人であった。
2020年ーーコロナ禍の真っ只中にもかかわらず、私は在外研修のため臨時便で中東に派遣された。
空港では消毒スプレーを全身にぶちまけられ、2週間はホテルの部屋から一歩も出られない隔離生活を強いられた。台湾ドラマを一気見し、好きな投手のメジャーデビューを見届けて2週間を満喫したのは内緒である。
中東といえば、残念ながら多くの日本人は紛争のイメージが脳裏をよぎるに違いない。そうした部分があるのも事実ではあるが、中東の全ての国が火のついた火薬庫になっているわけではない。我が弟の愛する東京ヤクルトスワローズの方がよほど燃えている。
むしろ私の派遣された国は中東の安定において極めて重要な役割を果たす国で、周辺国で紛争が起きると積極的に難民を受け入れ、ほいほいと国籍を与える。
私のアラビア語の先生もそんな難民の一人であった。
その先生は読解を教えるのを得意としていた。子ども向けの絵本から始めて、アラビア語を読むための基礎をじんわりと染み込ませてくれた。「白雪姫」、「アルプスの少女ハイジ」、「オズの魔法使い」……。既によく知る童謡を先生と共に深く深く味わい、滑稽なキャラクターに笑いを浮かべていると、実に意味のある物語であることが改めて窺い知れた。アラビア語を学ぶのはもちろん、先生は私に文学を教えてくださったのだ。
先生がなぜ文学を教授できる方だったかといえば、彼は中東で有名な短編小説家という一面も持ち合わせていたからである。
先生は私のアラビア語の先生であると同時に、人生で始めて出会った小説家でもあった。
そんな先生の授業で、より本格的な文学作品を用いたアラビア語学習へと歩みを進めていきたいところであったが、私は中東生活において自分を見つめ直し、二つの夢を再発見していた。
一つは、留学・研究経験のある、台湾関係の仕事をすること。
そしてもう一つは、小説家になること。小さな頃から夢見ていた小説家を本気で目指そうと決意したのは、紛れもなく先生のおかげである。
その二つの夢を目指すため、私は退職し、半年で中東を離れることにした。
今の職場で前職を退職した際の話をするとき、私は決まって「神のお告げ」の結果だと冗談めかして笑いを取る。
だが、神の用意したシナリオの秀逸さに本気で舌を巻いているのも、また事実である。
最後の授業で、私は先生に夢を語った。ちょうどアラビア語には単数形と複数形のほかに、二個のときにだけ使う双数形という活用がある。”二つの夢”を意味するアラビア語にしかない言葉で、先生に夢があると告げた。
勤め先にも話していない二つ目の夢の話をすると、先生は後進の誕生を大いに喜び、”二つのアドバイス”をくださった。
ーーいいかい、本を読みなさい。3年間で200冊だ。私は200冊読んで小説家になった。
たった200冊でデビューできた先生がいかに天才だったかを思い知るのは2年半後のことである。
そして既に小説家を引退していた先生は始め方だけではなく、終わり方も授けてくださった。
ーー山を登って登って、頂上で辞めるんだ。でないとあとは落ちていく一方だからね。だから、メッシは来年2021年に引退するに違いないよ。
メッシが後進たちとともにW杯で頂点に立つのは1年半後のことである。
私はまだ山を登り始めてすらいない。神が私の小説家キャリアにどんなシナリオを用意しているかはお手並み拝見としか言えない。今日も夢を追って私はもがき続ける。
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