「静かな個性」と「うるさい個性」
「個性がある」と聞いて、
皆さんは何を思い浮かべますか。
芸術的だったり、人とは違うような突飛な行動をしたりするような人を思い浮かべないでしょうか。
これは、「うるさい個性」(表面的で目に見えやすい)のみが尊重されてきた結果なのではないかと思うのです。
私は学生時代の先生には、まず覚えられないようなタイプの子でした。
理由は、派手で目立つような個性を持ち合わせていなかったからのように思います。
「先生先生!見てみて〜!」
「なんだよ、お前はほんとに自由だなぁ」
「咲音さんは、真面目ですよね」
私は私で、夢中になっている本がある時は、何も手につかずそればかりを読んでいたし、(女子グループの休み時間の誘いも、たまに断らせてもらうほどハマっていた)自分なりの自由を謳歌していました。
しかし、前者は私の言葉で言うと、「うるさめの自由」、後者(私)は「静かめの自由」だったので、後者には目がいかず、そのような印象を持たれたのだと予想します。
また、ある時課題図書の感想を、クラスメイトが一人一人発表していく時がありました。
私はその本は読む気になれなかったのですが、先生から責め立てられるような面倒にも巻き込まれたくなかったので、ネットで掴んだ要約とともに適当な感想を用意していました。
その時は、思春期なこともあり、皆が
「序章しか読めませんでした!つまんなくて!」というような流れを作っていました。
絶対に全部読んだあの子までもが、その波に飲まれてしまっていることに、切なさをひしひしと感じていました。
私はその流れには乗らず、用意していた通り、ネットでの要約と適当な感想を言いました。
すると、また「真面目だね」とお決まりの言葉を言われました。
私は先生の「もう!何で読まなかったの〜?」というような質問が来ると分かっていて、正直に答える方がよっぽど真面目なんじゃないかとも思い、妙な気持ちになりました。
これも、表面的な「うるさい個性」のみに注目された実例です。
中学生くらいから、人は印象ブランディングができるようになると思います。
だから、自己が認識している自分と、他人が認識している自分の乖離があると、印象ブランディングによって埋めようとします。
たとえば私は、「真面目」「自由」を持ち合わせている人間だとしても、
「うるさめの真面目」と「静かめの自由」のせいで、「真面目」というレッテルだけが貼られます。
すると、どうにか自分を分かってもらおうと、「静かめの自由」→「うるさめの自由」に変換しようとしたりします。ちょっと派手めの行動をしてみたりして。
しかし、本来の私は前者であって、「うるさめの自由」は偽りの姿になります。
このように静かめの個性を無視してしまうことは、「本来のその人」を尊重することと遠ざかってしまうのではないかと思うのです。
しかしだからといって、自分の「静かな個性」を人に全部わかってもらおうというのも傲慢な気もします。
だから私は、「真面目だね」ではなく、「真面目なところがあるんだね」と、
こちらが感じた性格は、その人の全てではなく、飽くまでもその人の一部分、一要素であるような言い方をするよう心がけています。
他の要素、こちらが気づいていない「静かな個性」もきっと持ち合わせているはず、と思って。
これが正しいのか、間違っているのかは私も分かりませんが、ささやかな言葉のチョイスによって、「静かな個性」が今よりも尊重され、より多くの人が生きられる世の中になるような一歩になればうれしいなぁと密かに思っています。