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新たな狂気はいかにして可能か 松本卓也『創造と狂気の歴史』

松本卓也の『創造と狂気の歴史プラトンからドゥルーズまで』(講談社選書メチエ)。

西洋哲学史で「創造と狂気」がどのように扱われてきたか、それを追跡していく論考です。

西洋哲学の偉人たちがどのような狂気をもち、それが彼らの創造性にどのようにつながったのか、という内容の本ではありません。タイトルだけ見るとそういう内容をイメージしてしまいますが、そのような病跡学ないし精神病理学的な話を期待すると肩透かしを食らうので要注意。


登場するのはプラトン、アリストテレス、デカルト、カント、ヘーゲル、ヘルダーリン、ハイデガー、ラカン、デリダ、フーコー、ドゥルーズなど。

デカルト、カント、ヘーゲルが狂気を追放して健康な近代的な主体を打ち立てる。

ヘルダーリンとハイデガーが追放された狂気を取り戻す。

ドゥルーズらフランス現代思想家は取り戻された狂気の制限的なあり方(統合失調症中心主義)を批判し、狂気を真に開放しようとする。

これが本書の基本的な流れです。


興味深いのは統合失調症中心主義といわれるもの。

従来の精神病理学は狂気が生み出す創造性に着目し、その狂気を統合失調症(精神分裂病)に関連付けてきました。

統合失調症の患者には並外れたクリエイティビティがあり、天才には統合失調症の家系が多い、というふうに。

しかし著者はこれを批判し、「役に立つ狂気だけが称賛されている、それでは狂気を真に開放したことにはならない」というのです。これはドゥルーズ的な観点だと思われます。

狂気が称賛されているように見えても、それはシステムに有用な範囲での称賛にすぎず、実際には狂気は現行システムに従属させられているのだ、的なニュアンスですね。


本書のコアは最後のドゥルーズの章でしょうか。ページ数も他の章より格段に多く、著者が本当に書きたかったのはここなのだろうなと感じます。

この章では、現代という時代に狂気と創造性がいかにして可能かが問われています。

20世紀における医療の進歩は、統合失調症を軽症化しました。もはやかつてのような狂気はほとんど見られません。それにともない、創造性の源泉としての統合失調症神話が崩れていきます。

もはや狂気は、そしてそこに根ざす創造性は存在し得ないのか?

ドゥルーズの後期哲学が探求するのは、そのような条件下での新たな狂気と創造性です。

彼はヘルダーリン=ハイデガー的な深みの哲学に背を向け、ルイス・キャロルの文学に傾倒します。

ルイス・キャロルの世界は深みではなく、いわば表面に宿る狂気が探求されている。これは統合失調症モデルから自閉症モデルへの転換と捉えることができるでしょう。

フランス現代思想はハイデガー哲学への注釈にすぎないとよく言われますが、ドゥルーズに関してはそこに収まらないものがあるのかもしれません。


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