ポール「行為は構成的目的を持つか?」(『行為の哲学』第7章)
Paul, S. 2021. Philosophy of Action: a contemporary introduction.
Ch. 7 "Does Action Have a Constitutive Aim?"
節構成
7.1 善の相〔The Guise of the Good〕
7.2 自己理解という目的〔The Aim of Self-Understanding〕
7.3 自己構成という目的〔The Aim of Self-Constitution〕
7.4 力への意志〔The Will to Power〕
7.5 構成的目的は存在しない〔No Constitutive Aim〕
7.6 倫理学・メタ倫理学への含意〔Implications for Ethics and Metaethics〕
導入
・ある種の活動や事物は、(部分的に)目的によって定義される。
例)マグカップの目的:人間が温かい飲料を、手をやけどせずに飲むこと
・構成的目的〔constitutive aim〕:事物の本性を規定する目的
・ある対象の構成的目的を理解すると、①その対象の本性の部分的な理解、②その対象の善し悪しの規範〔norms of being good or bad〕の導出、が可能になる。
・本章の主題は、人間の行為は構成的目的を持つか(持つとすれば、それは何か)である
・行為の構成的目的がわかれば、人間の行為の本性についての理解が進むと共に、人間の行為の善し悪しの基準、ひいては倫理学の基礎が与えられる可能性がある
7.1 善の相〔The Guise of the Good〕
・〈善の相〉テーゼ:すべての行為は、何らかの点で善いと行為者が見なすものである。このテーゼによれば、行為の構成的目的は〈善さ〉である(Cf. アリストテレス『二コ倫』の冒頭。「すべての行為は何らかの善さを目指している」)
・ただし、何らかの点で良いと行為者が見なす、という留保条件に注意。行為者は世界認識について誤ることがある。
・このテーゼには、強いヴァージョンと弱いヴァージョンがある。強いヴァージョンによれば、すべての行為は、行為者によって最善であると見なされたものである。弱いヴァージョンによれば、すべての行為は、行為者にとって何らかの点で善いと見なされたものである。前者はいわゆる意志の弱さを許容しないが、後者は許容する。
・反論①:反例の提示。善の相に動機付けられない事例、あるいは〈悪の相〉に動機付けられる事例。
・反論②:行為の一般的条件が善の相テーゼを含意しないことの示唆。たとえばSetiyaの議論。行為であるためには行為者が自分の行為に対する実践的知識をもっている必要があり、かつ、自分の行為に対する因果的ー心理的な説明を与えることができなくてはならない。しかし、その因果的-心理的説明には、善さを示すこと(正当化〔justification〕)は含まれない。(たとえば、復讐で人を殺すという例。復讐が殺人を正当化すると行為者当人は信じていないとしても、因果的ー心理的説明としては理解可能)
7.2 自己理解という目的〔The Aim of Self-Understanding〕
Vellemanの見解
・行為の構成的目的:理由に従って行為すること〔act in accordance with reasons〕
・我々が実際にもつ目的は、「理由に従って行為する」より具体化された目的である。すなわち、我々は自分自身を理解可能なものにすることを目指す〔we aim to be intelligible to ourselves〕。
・言い換えれば、我々は自分自身の振るまいが意味をなすような仕方で行為する欲求、あるいは駆動因〔drive〕をもつ
7.3 自己構成という目的〔The Aim of Self-Constitution〕
Korsgaardの見解
・行為の構成的目的:自分自身を統合的な行為者として構成すること〔constituting oneself as a unified person and integrated agent〕
・行為は、全体としての行為者に帰属可能でなくてはならず、その意味で、この種の行為者としての統合性なしに行為することは不可能である。換言すれば、行為には作者〔author〕が不可欠である。
・行為によって自身を統合的な行為者として構成するためには、行為を実効的〔efficatious〕かつ自律的〔autonomous〕にする原理と調和させる必要がある。そしてコースガードによれば、この原理はカント的な仮言命法&定言命法である。
・この意味で、カント的な命法(道徳法則)に一致しない行為は、自律性・実効性(ひいては、自身を行為者として構成すること)という目的に照らして、不完全な行為である。
・動物と人間の違い。人間は行為と目的の両方選択するが、動物は目的しか選択できない。動物においては目的は与えられていて、その手段を選択できるだけである。人間は目的を、ひいては自らの行動の格率〔maxim〕を選択しなくてはならず、その意味でより深い自律性をもつ。
7.4 力への意志〔The Will to Power〕
Katsfanasの見解
・すべての行為は〈力への意志〉(byニーチェ)の顕在化である
・力への意志:何らかの目的を追求し、またその過程で直面する困難に打ち勝とうとする動因〔drive〕
・欲求は一定の事態にむけられており、充足されると消える。動因は活動それ自体にむけられており、充足されても残り続ける。すべての行為は、欲求と動因の両方によって動機付けられている。
・行為の構成的目的:目標を達成する過程において、困難に打ち勝つこと
7.5 構成的目的は存在しない〔No Constitutive Aim〕
・行為に構成的目的があるとする見解はいずれも、行為の必要条件として、自己意識的な、複雑で洗練された心理的能力を行為者に帰属させる傾向にある。
・しかし行為に構成的目的を措定しなくてはならないわけではない。行為のミニマルな条件は、信念・欲求の対/意図との因果関係でしかなく、行為に構成的目的は存在しない、という見解をとることも可能。
・この立場においては、ミニマルな行為と、より洗練された自律的な行為とが別の仕方で区別されることになる。これについては8章で扱う。(⇒フランクファートにおける同化〔identification〕に関する議論が扱われる。)
7.6 (メタ)倫理学への含意〔Implications for Ethics and Metaethics〕
・行為の構成的目的に関する議論は、行為の本性に関する議論だけでなく、行為の規範理由がどこからくるのか、我々はなぜ規範理由に動機付けられるのか(動機付けられなくてはならないのか)という問題にかかわる
・行為の規範理由の一部は道徳的理由にかかわる。道徳的理由は、ある意味で〈客観的〉なものである(ように、少なくとも一部の人々には、思われる)。「ある意味で」とは、道徳的理由の拘束力が、行為者の心理的・動機的状態に依存しない、という意味である。
・この〈客観性〉は、世界に関する客観的事実のうちにはうまく基礎付けられないように見える(理由に関するメタ倫理的な問題)。他方で、〈客観性〉を、全ての行為者にとっての〈不可避性〉として捉えなおすことができるかもしれない。
・ここで行為の構成的目的に関する議論が関係してくる。行為の構成的目的は、行為の善し悪しの規範・基準を設定する。したがって、たとえば合理的行為者であることにとって構成的であるような行為の目的がわかれば、そこから、すべての合理的行為者が服さなければならないような行為の規範理由を導出できる(一部の規範理由の〈客観性〉を説明できる)かもしれない。
・さらに、これは理由に関するメタ倫理的な問題を解消するかもしれない。すなわち、上記の〈構成主義〉によれば、行為の理由は行為者であることの本性によって〈構成〉されることになる。したがって行為の理由は世界のうちに〈発見〉されるべきものでもなければ、他方で行為者の特定の心理状態に依存するわけでもない。
・想定反論①:構成主義は、我々がコミットしている理由の総体が大いなる誤謬の総体かもしれない、という懐疑を免れない[?]。想定反論②:行為の構成的目的の規範的拘束力はどこからくるのか。合理的行為者であることを欲求しなくてはならないのはなぜか。
要約
全ての行為がもつ何らかの一般的目標(構成的目的)があるか?
① 行為の目的は、行為の善さである
(我々は自らが何らかの善さを見出す行為を為す)
② 行為の目的は、自己理解である
(我々は自分自身にとって意味をなすような行為を為す)
③ 行為の目的は、自己の統一性である
(我々は自律的な自己を構成するような行為を為す)
④ 行為の目的は、力への意志の表出である
(我々は困難を克服し力を拡張する動因に導かれた行為を為す)
これらの見解からは、善い行為(者)とはどのようなものか、に関する見解が導かれうる。他方で、上記の見解から倫理学やメタ倫理学に対する含意をそこから引き出そうとするなら、上記の諸見解が、行為者の本性に関する議論としてそれ自体でもっともらしいかどうかという点に、注意を向けなくてはならない。
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以下、哲学の議論というよりは、(凡庸な)感想。
本書では言及がないが、行為(行為者)に構成的目的があるかどうか、そしてそこから行為(者)に関する何らかの普遍的規範を導出できるかという問題意識は、サルトルが実存主義のテーゼを導入する際の議論を想起させる。サルトル(の教科書的・表層的理解)によれば、椅子やはさみ等の道具とは対照的に、人間には本質=構成的目的はなく、その意味で実存が本質に先立つ。つまり、教科書的・表層的理解におけるサルトル主義に照らして言えば、行為の構成的目的なるものは存在しないということになりそうである。
ここには、そもそも人間とはどのような存在者であるかに関する対立、人間観・行為者観に関する対立があるように見える。一方では、人間・行為者に普遍的に備わる本質的な機能なり目的なりが存在しており、人間・行為者としての善さが(少なくとも部分的に)その機能・目的に照らして決定される、というのは、(この描像の提示の仕方にもよるが)いささかグロテスクな人間観であるように感じる(そして、そういう感性をもつことは健全である、というメタ的な感性もある)。他方で、そういう感性は、それ自体が何らかの歴史的・社会的条件の産物であるような気もするし、また、コースガード的な構成主義者が(たとえば)why be moralの問題に対して持っている問題意識の(いわば)切実さの感覚を共有しきれていないがゆえの、(変な言い方だが)無責任な感性(?)であるような気もする。くりかえすが、これは議論ではなく、単なる感想でしかない。
いずれにしても、行為論において、一つ一つの日常的な行為の精緻な分析に留まらない問題意識、倫理学に対する実質的な含意をもちうるような問題意識が生じてきているのは、興味深いことであるように思える。
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