文字と声
私は文章を読むと、書いた人の声が聞こえてくる。
声を知っている知人や家族の場合は、その人たちの文章、言葉を読むと必ずその人たちの声で再生される。意識してそうしているわけではなく、文字を見る、読むという過程で絶対に声が聞こえるのだ。声のトーンやスピード感や大きさが、わざわざ書かれていなくても、なんとなくわかる。
声を聞いたことがない人の場合は、声以外の情報から勝手にイメージされた声で再生される。
Twitterやインスタで親しくなった、出会ったこともない、年齢も知らない、性別もわからないような人でも、例えばアイコンとか、語尾とか、写真の撮り方とか、そういう情報で勝手に声が出来上がる。
だから実際声を聞く機会があったとき、その人の声が予想と全く違っていたら驚くし、同じだったら納得してしまう。
本を読む場合でも、声は聞こえてくる。
小説でも、漫画でも、専門書でも、なんでも。
小説や漫画は登場人物たちの性格や見た目がわかるから、声をイメージしやすい。その人たちのセリフを読むと、ただ文字として頭に入るのではなく、絶対に声になって頭に入る。
専門書でも、著者名から勝手に人物像をイメージして、顔写真があればそれを見て、感じ取った印象から声がつくられる。
以前友人にこの話をしたら、友人は声なんて聞こえないと言っていた。
「ありがとう」はただ単純に文字としての「ありがとう」で、そこに温度や色は感じない。だから声なんて聞こえてこない。聞こえてきても、それは自分の声でその文章を読んでいるだけだ、と。
「りょうかい」だと少し気怠げな春の昼間みたいな声で。
「了解」だとちょっぴり寂しい冬の駅構内みたいな声で。
同じ人が同じ言葉を送ってきても、表記の仕方や絵文字のありなしで声は変わる。
その人がどんな気持ちでどんな状況でその言葉を送っているのかはわからない。想像でしかない。当たっていないかもしれない。けれど、必ず声が聞こえてくるから、私は勝手に、ただの文字の羅列で苦しむときがある。人の負の感情を吸い取ってしまうときがある。
私の体が私の体である以上、目と脳が切り離せない以上、これからも文章を読めばたくさんの声を聞くことになる。けれどそれでいい。この力が、人の心に寄り添い、たくさんの感情に触れ、私の創作意欲を高めることに繋がるのだから。
あなたは、ここまでの文章を、どんな声で読みましたか。
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