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他者の合理性を理解する

長男がまだ小さかった頃、「は」に濁音をつけると「ば」になるということを、なぜだかすんなりと理解することができなかった。

「『か』に点々をつけると何になるかな?」
「が!」
「じゃあ、『た』に点々をつけるとどうなるかな?」
「だ!」
「よし、そしたら『は』に点々をつけると?」
「『は』に点々……?う〜ん………わかんない。」

「か」が「が」になることや、「た」が「だ」になることはちゃんと理解できるのに、「は」と「ば」の対応関係だけがどうしてか理解できない。
繰り返しの練習の末、息子も結局はその対応関係を(半ば無理やり)理解することができるようになったのだが、どうして「は」と「ば」の関係だけを理解できなかったのかは、最後まで謎のままだった。

しかし数年後、たまたま読んでいた言語学の本に、この謎の答えがすべて書かれていた。
結論から言うと、間違っているのは我々大人の方だったのだ。

音声学的には、点々をつけることは「濁音化」と呼ばれており、「無声音(喉の奥を震わせずにする発音)」を「有声音(喉の奥を震わせながらする発音)」に切り替えることを指すらしい。
この視点から考えると、「か→が」「さ→ざ」「た→だ」「は→ば」の対応関係はそれぞれ、「無声音→有声音」という「濁音化」の関係で整理できるように思える。
しかし、この中で「濁音化」の関係が成立しているのは、「か→が」「さ→ざ」「た→だ」の3つだけであり、「は→ば」には「無声音→有声音」という「濁音化」の対応関係が成立しないのだ。

これはぜひ実際に発音をしながら確かめてもらいたいのだが、「か→が」「さ→ざ」「た→だ」と順番に発音をする時に口の中で起こっている動きと、「は→ば」と発音をする時に口の中で起こっている動きは、まったく異なることがわかると思う。
実は、「は→ば」の切り替えは、喉の奥の震えの有無ではなく、唇の動かし方の変化によって行われている。
つまり、「は→ば」の発音だけが、他の3つとはまったく異なるやり方で行われているのだ。

よって、音声学的な観点で言えば、「『は』に点々をつけると何になるかな?」という質問の答えは、「わからない」が正解になる。
なんと、息子の答えは正しかったのだ。

息子はきっと、「か→が」や「さ→ざ」を発音する時に使った、「無声音→有声音」の切り替えの法則を無意識に身体で理解しており、その法則から「は」の変化も捉えようとした。
しかし、「は」を濁音化することができなかったため、仕方なく「わからない」と答える、という考え方をしたのだろう。
そう考えると、音声・発音的な観点からは彼は何も間違っておらず、非常に合理的な考え方をしていたことがわかる。むしろその視点から考えれば、大人が押しつける「は→ば」という対応関係は、当時の息子からは不合理極まりないルールに見えていたかもしれない。


私はこのことに気づいた時、社会学者の岸政彦さんが使っていた「他者の合理性」という言葉を思い出した。

社会学、特に質的社会調査にもとづく社会学の、もっとも重要な目的は、私たちとは縁のない人びとの、「一見すると」不合理な行為の背後にある「他者の合理性」を、誰にもわかるかたちで記述し、説明し、解釈することにあります。

「質的社会調査の方法ー他者の合理性の理解社会学」


子供たちのとる行動も、大人の目から見れば、あまりに不合理なものばかりに見える。しかし、「一見すると」不合理に見える行為の背後にも、実は大人たちが気づいていないだけの、彼らなりの「合理性」「合理的な理由」というものがあるのではないだろうか。
彼らは彼らの意味の世界で、彼らなりの合理性を駆使して考え、行為し、そこで生きているのだ。
他者の合理性を理解するとは、そのような、私たちとはまったく異なる世界を生きている人間の肩越しの視点に立ち、その人が見ている風景を少しでも理解できるよう、努めることなのだと思う。

一方で、私たち大人の世界はどうだろうか。

上司は現場を理解しない指示ばかり出してくるし、部下は理解に苦しむ理由で文句ばかり言ってくる。
他部署の人間は何を考えて行動しているのかさっぱりわからないし、経営陣に至っては距離が遠すぎて同じ人間なのかすらわからない。
子供の学校のPTAのメンバーは、仕事の進め方がぜんぜんわかってないし、近所に住む外国人はゴミ出しのルールをぜんぜん守ってくれない。

私たちはそんな風に、他者の不合理性ばかりを非難して、相手の風景を、相手の肩越しの視点を理解することを怠り続けているのではないだろうか。

上司は現場からは見えない複雑な組織の文脈を踏まえて判断をしているのかもしれないし、部下は私からは見えていない問題で何か苦しんでいるのかもしれない。
他部署の人間や経営陣にも、私たちには見えない風景や私たちとは異なる論理があるだろうし、彼らも私たちの風景や論理が理解できないことに、同じように不安を感じているかもしれない。
学校やPTAなどにはその世界の独特なルールや慣習があり、ビジネスの世界の仕事の進め方とは違う原理で彼らは動いているのかもしれない。近所に住む外国人の人は、母国語ではなく日本語で書かれた自国とは異なる複雑なゴミ出しのルールを前にして、毎日悩み苦しみ続けているのかもしれない。(自分は日本語が母国語だが、横浜市のゴミ出しのルールは複雑すぎていまだに理解できない)

「は」と「ば」の関係性が理解できなかった息子のように、もしかしたら、「一見すると」不合理に見える彼らの行為の背後にも、実は私たちが気づいていないだけの、彼らなりの「合理性(他者の合理性)」があるかもしれないのだ。

人びとの行為や相互行為、あるいはその「人生」には、必ず理由や動機が存在するのです。その行為がなされるだけの理由を見つけ出し、ほかの人びとにもわかるようなかたちでそれを記述し説明することが、行為を理解する、ということです。

「質的社会調査の方法ー他者の合理性の理解社会学」


イギリスには、「他者の靴を履く」ということわざがあるらしい。
他者の靴は、自分の足とはサイズも形も違っていて、自分にはぴったり合わないかもしれない。でも、他者の靴を履いてみて、どんな履き心地がするのか、実際に確かめてみないと、その人が普段感じていることについて、わからないことがたくさんある。
もちろん、他者が見ている風景を完全に理解することは、他者である私たちには不可能かもしれないが、他者の靴を一つひとつ履いてみて、その履き心地を確かめること、その人の見ている風景を理解しようと努めること、そのような面倒で時間のかかる行為の積み重ねを通じてしか、相互理解という淡い理想はなし得ないのではないかと感じている。


5歳になった次男は、だんだんひらがなやカタカナに興味を持つようになりはじめた。
彼は「は」と「ば」の関係性をどのように受け止め、理解するのだろうか。
自分も前よりは少し上手に、子供のことを理解してあげられるのではないかと感じている。

参考書籍


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