師走に良く耳にする言葉。「あっという間の一年だった」シャネーの法則
「あーっという間でしたよ」
先日ある在豪暦9年の日本人女性がそう話してくれました。
その言葉を聞き思い返した事は自分自身の体感です。
私は在豪暦17年なのですが
未だにこの国に住んでいる事その事自体も
『海外に住んでる⁉』と思う事が日々あり新鮮ですし
これまでの17年間が永遠のように長く感じています。
それだけでは無く、これまでの人生で一年が早く感じた事が
一度もないのです。半年前、極端な話一週間前の事ですら
遠く昔の事の様に思えます。
一般的には大人になると時間が早く過ぎるように感じる方が
大半を占めるのでしょう。
ご存じの方も多いかと思いますがその事を【シャネーの法則】といいます
この法則は『人生のある時期に感じる時間の長さは年齢の逆数に比例する』
というものです。
分かりやすく言うと、歳をとるにつれて自分の人生における「一年」の
比率が小さくなるため、体感として一年が短く、時間が早く過ぎると言う事
だそうです。
表を参考にすると、私の現在の一年の体感時間はなんと一週間!
いやいや私の体感では365日でも少なすぎると感じています。
私は1歳児と同じ体感年齢なのか? そんな事はありえません
それでは単純にボケが始まっていて
時間の間隔が不明確になってきているのでしょうか?
思い当たる節が無きにしも非ず、、、
例えば、10年ぐらい前にあんな事があったなぁ。などと思い返し
よくよく調べてみると2年前であったり。
そういう感覚に囚われる事が多々あるのですがこれは普通ではなく
ボケているのでしょうか?
私のケースがボケで無かった場合
ある一定条件では体感時間が遅く感じる要因を持った人が
いると言う事なのです。
AIによる概要によると
時間経過が遅いように感じられるのは、意識や感情、記憶、モチベーションなどさまざまな要因によって異なります。
時間経過が遅いように感じられる要因としては、次のようなものがあります。
1:意識が影響する場合は、時間の経過を気にすればするほど遅く感じます。たとえば、作業に集中しているときなど、時間を気にしなくていいのであれば、タスクのほうに関心を注ぐため時間の経過に気がつかないことがあります。
2:記憶が影響する場合は、ある期間の出来事を数多く思い出せるほど、その期間が長く感じられます。
3:同じ作業を長時間繰り返していると、脳が目の前の状況に慣れ、次に起こることが予測できてしまい、時間の流れが遅く感じられるそうです
恐らく私の場合は上記の3つの条件の合わせ技の様に思えます
どの条件も少しづつ思い当たるのです。
まず大前提として「いつ死んでもいい」と思っています。
それが故に、極端に言うと毎日が人生最後の日であり
毎日「まだ生きている。」正確にいうと「まだ生かされている」
という感覚なのです。その観点から考えると
条件1にあたる「時間の経過を気にすれば気にするほど遅く感じる」に
該当するとも考えられるのです。
私が「生と死」を考え始めたのは小学校3年生の頃でした
「なぜ人は皆平等に死にゆくのに生まれてくるのだろう」と
小学校の校庭にあった上り棒のてっぺんでここから頭から落ちれば死ぬ
という状況の中、考えを巡らせ始めたのが最初です。
その時から生きるのが辛い毎日であった事は否定しませんが
死んでしまいたい。というよりは
死ぬと分かっている中で生きる事の意味に焦点をあてて考えていました
そして”一日も早く大人になって自立したい”が
人生最初の目標となりました。AIの解説にある様に
”早く早く”と思っていたので時間は遅く感じたと思われます。
思春期を迎えたころにはやっと”早く早く”から
「いつ死んでも後悔しない人生」へと指針の転換はできたものの
それからは泳ぐのを止めたら死んでしまう魚の様に
睡眠も、休息も、娯楽も考えることなく全速力で走り続け
興味のある事を片っ端から全てやり始めました。
それから十数年が経ち、途方もない満足感と達成感を感じた時がありました
あの幸福感とその時に見た情景は未だ鮮明に思い出せます。
しかしその直後から襲われたのがやりたい事はやりつくした。
【 燃え尽き症候群 】でした。
と同時に沸き起こった感情
「まだ生きてる。まだ生きなくてはいけないのか」
という現実との対峙でした
生きる事を全速力で何十年もやり続ける事は至難の業です。
私にはもう、向上したい技術も、継承したい知識も
行きたい場所も、食べたいものも、見続けたい誰かもありません。
昔の様に人生50年ぐらいであったら、普通の人でも
「まだまだやり残したことが、」と思って死ねたのでしょう。
しかし寿命が延びた事によって欲望を長く持ち続けなければならなくなったと思うのです
好きな事があってそれを幼少期から更年期になってもなお
全力で向き合って努力を続けられる方が様々な職種の中におられます。
分かりやすい例では著名なスポーツ選手のキングカズさんや、
イチローさんです。
ああいった方々は本当に類まれな才能の持ち主だと思います。
私のような凡人には半世紀ぐらいが限界です。
欲望を持ち続けるのは非常に難しいと、
年齢を重ねるごとに痛感いたします。
「いつ死んでもいい。なんて、死に直面したことが無いから言えるのだ」と
思われる方もいるでしょう。しかし
私は子供の時に一か月という余命宣告を受けています。
が、幸か不幸か死ぬ事はありませんでした。
「幸いな事に」と素直に言えない理由は
暴力的な家庭環境と、その後の虐めを受ける人生にあります。
また、東京で永住権取得に駆けずり回り、
その為の大事な提出書類の一つである
健康診断を控えていた大事な時期に癌を罹患しました。
その時も死にたくない。とは少し違う事を願ったのです
「神様、あと一年下さい!」と、
私からしてみれば、厚かましくも一年もお願いしたのです。
永住権さえ娘に与える事が出来、最初のベースさえ豪州で構築できれば
あとは夫がなんとかできるだろう。と一年あればと考えたのです。
「憧れの海外生活!絶対死にたくない!」などとは微塵も思いませんでした。この永住権取得に賭けた数年も
「早く取得したい!早く取得したい!」と日々戦っておりましたので
やはり一日一日が長く感じたのでしょう。
しかし術後の経過も良く、転移も無く、定期検診はしていませんが
未だ生存しております。医者に行った際に問診票に既往歴を記載すると
定期検診をしていない事に対しこっぴどく叱られますので
最近は記載しない事にしています。
そして小学校3年生の時に自分に問いた
「なぜ人は皆平等に死にゆくのに生まれてくるのだろう」の
解は出ました。
ー遺伝子の継承と、民族繁栄ー これこそが人が命を受けた最大の使命
だと思っています。私はその責務は果たしたと思っています。
周囲の同世代の女性の中にも
「もういつ死んでもいい」と悟りを開いたような口ぶりで話す方は
意外とおられます。なんの科学的根拠も無いのですが、
子を産み育てた女性には子供の手が離れると、
自然と死を受け入れられるよう遺伝子に組み込まれているのかも知れないと
思わせられるほどです。
私自身もいつ死んでもいいよう終活も済ませました。
しかし、まだ生きている
まだ何かしらの役目があるのだろうと思い
昨年から起業の準備をはじめております。
もちろん起業の目的は生かされている事に応える事のみです。
もし私がボケていないのだとすれば
一日一日が、一年一年が長く感じる要因は
いつ死んでも後悔しない人生を指針としながら
中身の濃い人生を過ごして来た事と共に
幼少期の余命一ヶ月が一ヶ月でなくなり
永住権取得に命をかけ癌を患い、
その時に神様に願った”あと一年”から何年も経過し
生きている事を当然としていない思考がそうさせているのだと
”今現在”のところはそう自己分析しております。
皆様の今年一年2024年はいかがでしたでしょうか。
長かったでしょうか?短かったでしょうか?