見出し画像

読んだ:絶望ハンドブック 坂口恭平著 エランド・プレス

こんにちは。休職中30代、ゆかです。

以前のnoteにも書いたのですが、医師から軽い双極性障害の疑いがあるとして、薬の服用を始めました。

双極性障害について関心が湧きSNSで調べていたところ、双極性障害(躁鬱病)を患いながら作家、建築家、絵描き、音楽家として活躍する坂口恭平さんのことを知り、「絶望ハンドブック」を手に取りました。

本書では、絶望を以下のように定義して、鬱状態=絶望状態にある自分を助けたいという目的で執筆されています。

この本では、この状態、死にたいというほど苦しいという悶絶状態にあることを、「絶望」と名づけてみようと思います。

絶望ハンドブック 坂口恭平 P.15-16

先日のnoteには「ここまで書くのは…」「文字にしてしまうと本当になってしまいそう」という躊躇と怖さがあって書けなかったのですが、私にも「絶望」を感じる時間がありました。もう、やってきてほしくないけど、また絶望を感じる時間が来るのかもしれません。そのときの手助けになるように、本書から共感した一文や、自分も意識していきたいと思った箇所を抜粋してまとめてみようと思いました。


病気というよりも体質だと考えると、しっくりきます。躁鬱的体質は、のびのびしているときは本当に体がラクです。凪の海みたいにゆったり広々とできます。ところが、窮屈なところにいると、小さい箱のなかに入っている水みたいに波が大きくなってしまうのです。

絶望ハンドブック 坂口恭平 P.16

調子が良いとき、悪いときの状態が海や水に例えられています。私は調子のアップダウンを平面の直線的に矢印の向きで考えていました。だけど、こう言われてみると確かに調子が良いときは広く開けた海ように広がっていて、調子の悪いときは窮屈で波が荒んでいて、水のように立体的なイメージするほうがしっくりくるなと思いました。人に自分の状態を説明するときにも伝わりやすそうな表現なので、記録しておきます。


思い立ってすぐに行動というのは控えるようになり、どんな行動でも、実際に動く前に企画書のようなものを書く習慣を身につけました。なので、そこまでピークが異常に高いということはないんですね。

絶望ハンドブック 坂口恭平 p.27

躁状態のピークを穏やかにするために、著者が実践していることとして紹介されていました。調子が良いと、思い立ってすぐ行動して暴走しがちな私。上がったぶんだけ落ちるを意識して、一旦思いついたことを紙に書く習慣は取り入れたい。


絶望状態の僕は、書棚に並んでいる本から逃げるようにスマートフォンと向き合う。布団の中で1時間半は麻痺できるので、それなりに効く麻薬ではある。しかし、けっきょく最後は苦しい。

絶望ハンドブック 坂口恭平 P.114

絶望状態に入りかけのときSNSしか見れないときが私にもあります。そうか、これは頭と心を麻痺させるためにやっていたのね…家族にはSNS見過ぎと注意されたこともあるのですが、SNSを見たいというより、見ることによって感覚を麻痺させたいという麻酔的にSNSを見ているとわかりました。ただ、一時的であって絶望から抜け出せる効果がある方法ではない。


逆に、元気なときは、あらゆる恐怖が吸いとられる。だからなんでも挑戦できる。ただ、人間はバランスを取るので、吸いとられたぶんの恐怖はあとでかならず返ってくる。勇気もまた、元気な時に上乗せして返ってくる。そのぶん、無敵のように動けることがある。

絶望ハンドブック 坂口恭平 P.164

私は躁状態になることを絶望状態を抜け出して得たボーナスタイムだと思っていたときがあります。ここに書かれているように無敵のように動けるようになるから。でも、バランスをとっていると考えると、ボーナスだと思っていた無敵感のツケは絶望状態で払わないといけない。そう考えると動きすぎにはやっぱり注意が必要。


 つまり、絶望は、命懸けで僕を守ろうとしてくれていたのだ。
 そのことに気づくと、普段の生活で感じる小さな違和感を絶望からのアドバイスとして受け止められるようになった。

絶望ハンドブック 坂口恭平 P.191-192

絶望なんて無くなればいい、と思わずに絶望も自分として受け入れる。むしろ、絶望が自分を守っていると考えると、できるだけ排除しようとせず、「共存するには?」という視点が大事と気がつかせてくれる。


双極性障害(躁鬱)を体質と捉えるならば、病気との共生は不可避。躁状態でも絶望状態であっても自分の観察(=体の異変、思考の変化の様子)は必要であり、記録として残しておくことも大切。本書にも紹介があった「躁鬱大学」も読む予定です。

おわり

いいなと思ったら応援しよう!