佐藤栄作という男
沖縄の本土復帰から明日で50年。
これにより当時の佐藤栄作首相はその後、ノーベル平和賞を受賞した。
なぜ佐藤が?――
おそらく当時のノーベル委員会としては、冷戦下でヴェトナム戦争を行った超大国アメリカへのアンチテーゼといった意識があったのだろう。
だが日本も第二次大戦中、沖縄の人々に犠牲を強いた事実がある。
今の委員会ならば、このような場合は受賞者を日本の首相ではなく、沖縄の政治家にするかもしれない。
しかしながら、佐藤栄作という人物は意外と興味深い。
少年時代は実兄の岸信介ほどの大秀才ではなく、親族の間で人気者の兄と比べて目立たない存在だったと後の妻・寛子は語っている(『佐藤寛子の宰相夫人秘録』)。
東大卒業後は官僚となり国鉄関係の仕事に就くが、けっしてエリート街道ではなかった。
戦後は、巣鴨プリズンから出所した岸に煙草の火を貸しているドラマチックな写真が残っている。
首相になってからは「対米追従」で「退屈」とも評されたが、長期政権を実現。
ところが辞任会見では「テレビと違って新聞は記者の主観が入るから偏向的だ」と発言し、怒った記者たちが全員退席する事態に。
メディアへの露骨な圧力だが、空席だらけの会見場で何事もなかったように話し続ける姿は凄みがある。
妻によると、佐藤はもともと怒りっぽい人だったそうだ。
在任中、側近たちは彼のそうした姿を必死で隠していたのだと政治学者・御厨貴が放送大学で解説していた。
また、地方での新幹線敷設を計画する田中角栄幹事長に対し、佐藤首相が「タヌキでも乗せるのか」と一蹴したと読んだことがある。
自民党の党是であり、兄・信介の宿願だった憲法九条改正に佐藤は手を出さなかった。
そのため、当時のインタビューで岸は「あのバカは憲法改正をやらない」と実弟を痛烈に批判したと田原総一朗が朝生で言っていた。
だが沖縄返還の成功は、日本の主権回復への強い思いが佐藤にあったことを物語っている。