見出し画像

そこまで言うのなら… vol.4 闘病とオリンピック

競泳の池江璃花子選手に東京五輪辞退を求めるダイレクトメッセージが送られた件。

コロナのリスクから開催に反対する人たちが、池江選手にも反対してもらおうとしたものらしい。

それに対して同選手は「私は何も変えることができません」と応じている。
https://news.yahoo.co.jp/articles/4bc8a6327f934c917cd1d0b5b33fec32c887e3d0

そうしたDMへの批判もメディアで展開された。
https://news.yahoo.co.jp/articles/c6cdc35636a5131a531359c7a10b16e8e07d4167

 

ところで、なぜ池江選手なのか。

『スッキリ』で言及されたように、病気の克服が関係しているのだろうか。

しかし、大病を克服したから発言力が増すという発想はよく理解できない。

また、「五輪中止になったら、病気を克服した池江璃花子が可哀想」という意見を耳にするが、それもよく解らない。

中止の場合、各競技の代表選手は全員出場できないのだから、そういう意味では平等である。

なので、開催の有無と闘病の経験とを第三者が安易に結びつけて「可哀想」と表現してよいものか私は迷う。

 

闘病した池江選手を特別「可哀想」と言うのなら、 パラリンピックの代表選手はどうなのか?

開催が中止になったら、難病や障害において闘ってきた選手たちは、そうでない選手より「可哀想」なのだろうか?

やはり病気や障害に関しては、反射的に感じたままを語るのではなく、もう少し吟味が必要だ。

いいなと思ったら応援しよう!